御伊勢公園

 (住所:佐倉市王子台1-17)

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1.御伊勢公園

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 御伊勢公園は京成臼井駅よ南口より大型ショッピングセンターに沿って歩いて5分ほどにある広い公園である。 近くには臼井公民館・市民音楽ホールなどがあり、各種行事などにも利用され、平日にはおとしよりが グラウンドゴルフを楽しむ姿も見られる。春には満開の桜も見られる市民の憩いの場である。 ここはかつては御伊勢山と呼ばれた小高い丘陵だった。その一角に後述の神明社があった。

2.配置図

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 上記1の御伊勢公園には下記に紹介するニュータウンに係る土地区画整理事業の記念碑と 区画整理以前からこの地にある神明社の境内の石造物がある。上記2は公園内の石造物の配置図である。 以下にそれらを紹介したい。

 

3.臼井駅南土地区画
  整理事業記念碑
 (配置図-A)

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 この記念碑は、この公園の野外ステージの近くにある高さ約3mの大きな碑である。上下2つの部分から成り、 上部正面には区画整理事業着手前の事業予定地域の航空写真を500分の1の縮尺で再現した地形図が描かれている。 下の部分は正面に整理事業への思いや事業に至る経緯などがしるされている。裏面には左半分に区画整理の完成図 が、右半分には区画整理組合の役職員の名前が刻まれている。以下にこの記念碑の正面に刻まれた文章を 紹介する。
   「 記念碑  碑文  此の臼井は中世に於いては、千葉氏の一族臼井六郎常康より十六代、 臼井氏の城下町として栄え、又江戸時代には江戸ー成田を結ぶ枢要な宿場として繁栄した処である。  しかし、臼井は明治に入って国鉄総武線の開通により宿場としての機能を失い衰退の一途をたどってきたが、 大正十五年京成電鉄が開通して以来、印旛沼湖畔の街として漸く明るさを取り戻したのである。  敗戦、それに伴う社会機構の改革という激変を経て昭和三十年代に入ると、日本経済は急激な成長を遂げ、 東京近郊に於て人口の急増を来たす結果となった。臼井に於てもその例外ではなく、押し寄せる人口の波に 洗われて所謂スプロール化という現象が発生するに至ったのである。加えてモータリゼーションの発達は 臼井を通過している国道二九六号線を益々狭隘なものにしていったのである。 ここに私達は県、 市当局並びに関係者と協議し、土地所有者の大半を占める農家の経済的安定をはかり、優良な環境を創って 住宅の供給を行う所謂「農住都市構想に基づく土地区画整理事業」を実現する決意を持つに至ったのである。  新生臼井は印旛沼湖畔の街として緑に溢れ、生活利便施設が完備され、駅前広場を持った立派な街づくり という理念から佐倉市当局、京成電鉄とも充分に協議し、まず京成駅移転を受け入れるという重大な決意を したのである。 以上のことから施行面積五八・五ヘクタールとし、昭和四十七年八月四日付で駅前広場及 び都市計画道路駅前線が決定された。関係地主二百五名の同意を得て、昭和四十八年一月十二日千葉県知事 の組合設立認可がおり、同月二十八日相一回総会を開催し、事業に着手したのである。  道路、公園、上下水道、都市ガス施設等の外、公益施設としてショッピングセンター、教育施設、支所公民館、 銀行、駐輪場、集会所、医療施設等の各用地を徐々に確保していった。地盤改良工事、東京電力超高圧送電線鉄塔 の移転、土砂の搬出、未同意者に対する執行、オイルショック等諸々の困難を克服し、十余年の歳月と総事業費 八十一億三千余萬円を費して、ここにめでたく本事業を完成させることが出来たのである。  当組合は本事業の竣工に当たり、新しい街づくりを記念して碑を建立し、本事業の意義を長く後世に伝え、 将来の発展の礎とするものである。   昭和五十八年四月吉日 野口 甫 太田 勲 文撰  佐倉市臼井駅南土地区画整理組合   本事業に対し左の通り表彰さる。 一、昭和五十七年七月十三日  建設大臣賞  一、 昭和五十七年七月九日 全国土地区画整理組合連合会会長賞  一、昭和五十七年十月二十五日  優良都市公園佐倉市長賞   百年の前の栄に復さむと 区画整理の業をおこしぬ   理事長 野口 甫  光堂長津正雄書印」 

4、神明社

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 上記2の配置図の右下、公園の南東部の一角にこの神社はある。東隣に臼井公民館・市民音楽ホールが 道を隔てて建っている。

5.神明社由来碑
  (配置図-B)

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 神明社と書かれた標石が正面右にあり、その横の鳥居をくぐると敷石の右側にこの碑が建っている。 碑には以下の通り文字が刻まれている。「  神明社  一、祭神 天照皇大神 (アマテラススメオオカミ) 伊勢神宮内宮に同祭神  一、例祭 十月十六日  由緒   由緒不詳なれど慶長年間縄入れの時 此処に終わりを告げ 余れる縄五把を此の地に埋め大神を祭りて  以て村の繁栄を祈る 今五縄の字存在すとも称す 鎮座の地を御伊勢山と呼び裾野の田地を御伊勢付と称す  神明社の鎮座する御伊勢山は 土地の区画整理事業が施行され 事業完了時 従来の地に新社殿を竣工し  昭和五十五年五月十五日 遷座祭が斎行された  平成六年十月𠮷日  臼井環境整備委員会建之」   なお、前述の神明社の標石及び鳥居も同日に臼井環境整備委員会により建てられている。

6、浅間神社石祠   (配置図-C)

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 鳥居から見ると社殿の左側にある木の祠の中に収められている。この石祠の本体の高さは53cm。 正面に「浅間神社」、左側面に「明治二十五年(1892年)」、右側面に「一月吉日 太田武右ヱ門」 と文字が刻まれている。

7.石祠(配置図-D)

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 上記6の右隣にある。高さ40cmの石祠である。損傷が激しく正面は青面金剛らしき像が彫られているが 断定できない。左側面に「宝暦七丑年(1757年)六月吉日」の文字が判読できるのみである。

8.手洗石その1
  (配置図ーE)

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  上記4の由来碑の敷石を挟んだ反対側に手水舎の中にある。正面に「奉納」、裏面の左方に「平成六年十月吉日  臼井環境整備委員会建之」と文字が刻まれている。高さ50cm。

9.手洗石その2
  (配置図-e)

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 社殿の左脇に建っている。この手洗石の所まで敷石があることから大事にされていることがわかる。本体と台石 併せて高さ55cm、本体正面に右から横書きで「奉納」と刻まれている。年代等は不明。

佐倉石碑クラブ

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