「石碑・石仏」の豆知識

 

1、はじめに
 (石と庶民の信仰)

 石というものは、他のものに比べて格段の耐久性があります。「石碑」に刻まれた年号をみると、優に百年、二百年を経過したものがあります。「石碑」は、 その地域の歴史を推定する手掛かりになります。人の生活のない所に、「石碑」はないわけで、いかに人々が「石碑」と関わって生きてきたかを感じます。
 「石碑」は、鎌倉時代や室町時代のものもありますが、大部分が近世つまり江戸時代以降のものです。一説によると江戸城を築くために全国から石工を集め、 築城が終わった後この石工たちが江戸の周辺に定着していろいろな石仏が作られるようになったと言われています。戦争がなくなり、人々のくらしも落ち着きを取り 戻し、余裕が生まれたと見ることもできるでしょう。
 しかし、庶民のくらしは落ち着きましたが、天災地変や疫病などによる苦しみはなかなか克服できる訳でなく神仏の加護を祈るしかなかったのでした。 現在残されている「石碑」は様々な災厄から逃れ、実り豊かな年であることを願い、神仏の霊験にすがって必死に生きてきた庶民の願いを込めたこころの産物とも 言えましょう。 飢饉の年に、生まれた子どもをひそかに始末する「間引き」なども行われ、このような悲しい思いは念仏などに頼って安心立命を得るよりほかはなかったのでしょう。
 かつて先哲がひたすら庶民との一体化を願って実践した衆生済度の理念や行脚遍歴の情熱は遠くに去り、時代とともに「現世ご利益」つまりなんらかの「ご利益」を 期待して祈る信仰が庶民の間に広まりました。疱瘡(天然痘)が流行ると「疱瘡神」をまつって祈ったり、眼病や足の病にきく神仏があれば日参するといった具合に 病気から逃れるための信仰や、火災除け・盗難除けなどの災厄を防ぐ、といった様々な神仏頼みがおこなわれ、これらのための「石碑」もつぎつぎとつくられるように なりました。

2.「講」について

 講とは仏教の教説を講義することで、これが儀礼化して講会(こうえ)となり、これがのちに、念仏講・庚申講・大師講・頼母子講などと 広く使われるようになった。宗教上の目的を達成するための集団の意味であったが、頼母子講は宗教とは関係のない貯金の仲間である。
 庚申講は庚申会を行う仲間で、2か月に1度、庚申の日に集まり、あるいは庚申塔を建てたりする。佐倉周辺の神社には、出羽三山参拝記念の 石碑が多いが、これを行う講を羽州講・三山講、あるいは八日講という。山形県の羽黒山・月山・湯殿山へ参詣した人たちの集まりで、 1月・5月・9月の八日に寄り合いをする。これは男の講である。 また男の講に二十三夜講がある。1月・5月・9月の23日に成年男子が集まって飲食をした。この講により建てられた二十三夜塔も 多く残っている。
 地域によっては月待は女性の講とされているところも多く、庚申講に対して女性の十九夜講・二十三夜講として行われる。 このような場合には、嫁たちの安産祈願と称して行われることもあり、二十三夜を産夜と理解したものであろう。
 十九夜講は結婚した若い女たちの講で、「おっかさんの講」とも呼ばれる。安産祈願が目的である。印旛地方の古寺の境内には、 「女人講中」の建てた十九夜塔が多くみられる。
 観音講は、秩父参りに行ってきた女たちの講で、昔は五十歳以上の女性が秩父参りに行き、講を作った。秩父参りは十年に一度行われ、 その時買ってきた掛け軸を、二カ月に一度集まって拝む。
 念仏講は六十歳以上の女たちの講で、六十をすぎると念仏を習って仲間に入る。 毎月十八日に寄り合い念仏を唱え、会食する。念仏講のお婆さんたちは、葬式の時は頼まれて念仏を唱えに行く。

3.八十八カ所

 八十八カ所は、四国八十八カ所を模して造られたもので、旅行が自由でなかった時代に、一国内に造られたのが起こりで、やがて島や川筋、さらには一町内や 一カ寺の内にまで造られた。みな三尺四方、高さ六尺位の小祠で、お寺の境内や街道の分岐点、古木の根方などに建てられ、内部に大師の像かよだれかけを かけた地蔵の坐像が置かれている。
 佐倉には八十八カ所を巡る講があり、十善講と言っている。

4.菩薩について・・・
  現世ご利益の仏像

 大乗仏教の信者による菩薩の考え方は、「自分は仏になる資格があるが、世の中の苦しんでいる人々が救われるまでは、人々のためにつくし仏にならない」ことを 信条としたものである。この大乗の菩薩がやがて主流となり、数々の経典をもとに多くの菩薩像ができた。だから菩薩は出家の修行僧の形をとらず在家 (インドの貴族や商人の姿がベースになっている)の格好をしている。
 菩薩の表情は、憤怒の表情をしている馬頭観音以外は、如来と同じく柔和である。如来とは異なり多面多手像が多くある。いろいろな人に対するには、 顔がたくさんあった方がいいし、救いのために差し伸べる手も多くあったほうが便利であることから、十一面観音、千手観音などが造られた。体にはいかにも インドの貴族らしい服や装飾品をまとっている。
 上半身にふわりとショールのようにかかっている天衣(てんね)、タスキ状に肩から腰にかけているのが条帛(ジョウハク)、下半身のスカートのような裳(も)、 ネックレスは瓔珞(ようらく)、上腕の腕輪は臂釧(ひせん)、ブレスレットは腕釧(わんせん)、イヤリングは耳璫(じとう)、頭には宝冠(地蔵菩薩を除く)を まとっている。地蔵菩薩は丸坊主の僧侶の格好をしているが、ネックレス(瓔珞)だけはつけている。持物(じもつ)とよばれるいろいろな持物を手にし始めるのも 菩薩からである。代表的なものとして地蔵菩薩の持つ杖や宝珠、観音像の多くが持つハスの花(蓮華)などがあり、それぞれの菩薩の能力の象徴である。
 観音様やお地蔵様に私達が昔から祈願し、求めてきたのは高尚な悟りの境地や仏教の真理ではなくもっと身近な願い「病気が治るように」「子どもが元気に育つよう に」「商売がうまくいくように」・・・・・などといった現実の悩みの解消や希望の成就を期待し、それに答えるように菩薩は多くの手を持ち、さまざまな持物で 保証を与えるようになってきたのである。

 (1)観世音菩薩
   (観音様)

 現在でも大勢の巡拝者でにぎわう西国三十三カ所、関東の坂東三十三ヶ所の霊場はすべて観音霊場でこの信仰の始まりは平安時代にまでさかのぼる。 観世音菩薩は観音菩薩とも呼ばれ、一口でいえば現世利益をもたらしてくれる慈悲の仏である。観音のパワーや能力は「法華経」という経典の「観世音菩薩普門品 (かんぜおんぼさつふもんぼん)第二十五」という章に詳しく説明されている。この中で観音は「施無畏者(せむいしゃ・怖いことや災いのない状態を人々に施して くれる者)」であると定義されている。
 このお経の最後の部分(偈文・げもん)に「念彼観念力(ねんぴかんねんりき)」という言葉が頻繁にでてくるが、これは「観音様の偉大なパワーを念じれば」、 病気から天変地異にいたるまでおよそ人間にふりかかる災難のすべてから救われることを表している。
 観音はケースによって三十三の違った姿に変身(三十三応現身(おうげんしん)または単に三十三身)して私達を救ってくれるという。その姿は僧侶であったり、 尼さんであったり、童女であったりとバラエティーに富んでいる。坂東や西国の観音霊場が33なのも京都の三十三間堂も三十三応現身がその由来である。 この三十三霊場にまつられているのが七観音という代表的な観音を集めた形である。 この七観音とは、
   聖観音
   千手(千眼)観音
   十一面観音
   准胝(じゅんてい)観音
   如意輪観音
   不空羂索(ふくうけんじゃく)観音
   馬頭観音
である。このうち准胝か不空羂索のどちらかをはずして六観音ともいう。

  (A)聖観音
    (しょうかんのん)

 正観音とも書く。いろいろな観音の一番の基本形と考えられる。 顔が一つで手も二本。私達と同じ姿の一面二手で、他の観音様と比べてとてもすっきりした姿である。最大の特徴は頭部にある。額の上や宝冠の正面に小さな仏 (化仏・けぶつ)がつけられ、そのほとんどが阿弥陀如来像である。一面二手と化仏、この二つの条件をそなえた菩薩像なら立像でも坐像でも聖観音と考えられる。 化仏に阿弥陀如来がついているのは、観音菩薩が阿弥陀如来の化身の菩薩とされているからである。
 勢至菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍となるが、独立した像としても信仰されている。

  (B)十一面観音

 文字通り十一の顔を持つ観音像である。顔が十二の像もあるが、中央の大きな顔(本面)を十一面の一つに数えるか否かの解釈によるものである。数えなければ、 本面+十一面の計十二面となる。
 おだやかな観音の慈悲そのものを表している面・頑張って生きている人を励ましている面・悪人をいましめ正しい道に進ませようとする忿怒(ふんぬ)面・悪人に 対して恥を知れとばかりに笑い飛ばして良心に目覚めさせようとする暴悪笑面・仏道に入った人に教えを説く如来面などでいろいろに変化して人間を救おうとする 観音の本願を表現している。

  (C)千手(千眼)観音

 千の手に一つ一つ眼があり、その眼で人々が苦しんでいるのを見て、すぐに救いの手をさしのべてくれる。観音中の観音。蓮華王(観音の王)ともよばれる。

  (D)不空羂索観音

 像の数が少なく、あまりなじみがない観音様。羂索(絹の網)ですくうように、もれなく(不空)私達を救うことを本願とする仏。

  (E)如意輪観音

 右足を立て膝にして座る(輪王座像)、あるいは椅子に座ったような格好で右足だけを曲げて膝にのせる(半跏椅(はんかい)像)。こうしたリラックスした スタイルで右手を軽く頬にあて、少し考えるように首を少しかしげている。右手を頬にあてて考えているような形は思惟相(しゅいそう)といい、苦しんでいる人々の ことを心配している姿をあらわしている。六手像がもっとも多く、その手に持つ如意宝珠(望み通りの財宝や衣食などなんでも取り出し、どんな苦しみも除くと いう不思議な珠)と輪(煩悩を打ち砕く法輪)が如意輪の名の由来である。
 どんな願いもかなえてくれるが、安産・除難・長寿に効験ありとされる。北総地方は女人信仰のかかわりにおいて、如意輪観音の像塔例の多いことは、すでによく 知られている所である。各地に如意輪観音を彫った女人成仏の墓塔や一九夜塔を中心とする月待塔が造立されている。

  (F)子安観音

 如意輪観音の変形。立て膝をしないで左手に幼児を抱く形も出現。初期は、十九夜塔の中に子安像塔があらわれた。如意輪観音が十九夜講の主たる念仏対象であるが 、老若様々な女性を含むため、産み盛りの若い連中は安産や子育てを祈ることを主目的となり、極楽往生を願う老女とはおのずと信仰目的を異にするようになった。

  (G)准胝観音

 同観音を書いたお経の中に「三眼で十八本の手を持った観音が水面に浮かんだ蓮華の上に座り、その蓮華を難陀(なんだ)と沙迦羅(しゃから)の竜王が支えている」 という表現があり、これを忠実に再現し二竜王を脇侍とするのが典型的な准胝観音像といえる。但し日本ではあまり信仰されなかった。像数は少ないが子授けの仏で 有名である。

  (H)馬頭観音

 観音としては例外的に仁王のような忿怒相ををしている。怒りによって人々の目を覚まし、正しい道に導こうという性格が強く表現されている。怒った顔が四面または 三面、手は八本か六本、正面の顔は眉間にも目がある三眼。そして頭部に馬の首をつけているというのが特徴。
 平安時代から信仰された。本来は畜生道に落ちた衆生を救済する仏とされたものだが、のちに馬頭にちなんで牛馬を守る仏として、路傍の石仏に多く祀られた。

  (I)三十三観音

 白衣を着て、頭は髪を高く結い上げ、白布をすっぽりとかぶるか宝冠をかぶり、首飾りをし、持物を持つかまたは手が衣に隠れているのが三十三観音の共通点である。 三十三観音の多くが一面二手で明らかに女性像に見える点で七観音と大きく異なる。
 三十三観音には、白衣、円光、滝見、延命、瑠璃、龍頭、楊柳、魚藍など33の 観音がある。子育て観音とか慈母観音として信仰される像も三十三観音の変化したものである。

 (2)勢至(せいし)
    菩薩

 阿弥陀如来に聖観音とともに脇侍となっている。単独の像としてまつられているのは少ない。聖観音と非常によく似ているが、頭部に化仏ではなく宝冠をつけて いるのが 特徴である。智恵の光明で人々を照らす仏。
 勢至菩薩は古くは室町時代の月待板碑に出現しており、江戸時代の寛文・元禄期には月待塔として各地に造られるように なった。三十日秘仏の二十三番目に当たるところから、二十三夜待の礼拝本尊とされ、二十三夜塔としての像塔が多く、少ないが十六夜・十七夜等の像塔もある。 但し、月待塔としては、如意輪観音が圧倒的に多く、勢至菩薩は数が少ない方である。

 (3)普賢(ふげん)・
    文殊(もんじゅ)
    菩薩

 普賢は仏の理性を示す菩薩で、慈悲を司る他女人往生をも説く。多く白象の背上に結跏趺坐の姿で造られる。 文殊は智恵を司どる菩薩で獅子に乗り、右手に剣を持つ。両菩薩は釈迦如来の脇侍として造られることが多い。

 (4)日光・月光
   (がっこう)菩薩

 薬師如来の脇侍として造られる。日と月は病気を治す薬師如来のパワーが、昼も夜もフルに発揮されるという意味を持っている。

 (5)虚空蔵(こくぞう)
    菩薩

 虚空蔵とは広大無辺の功徳が虚空のように大きいという意味。この菩薩を念ずると記憶力が増すとされ、智恵の仏として篤く信仰された。物事を暗記する意味の 「そらんじる」の「そら」はこの空に由来している。

 (6)弥勒(みろく)
    菩薩

 慈悲の菩薩である。釈迦入滅後五十六億七千万年後に現れて、如来となって衆生を救う仏。彫像は多く菩薩形に現される。

 (7)地蔵菩薩

 大地の恵みを表した菩薩で、釈迦入滅後五十六億七千万年の空白を埋めてくれる菩薩である。 衆生を救済する菩薩として広く信仰される。頭を丸め身に袈裟をまとった姿で、左手に宝珠を持つ。 後には右手に錫杖(しゃくじょう)を持つ例が多くなる。地蔵のパワーには、土地豊穣や長生きを保証すると言った現世ご利益のほか、すでに亡くなった人の苦しみを 救い、おだやかな浄土へと導くというご利益もある。これは自分の子を亡くした母親にアピールした。地蔵によだれかけをしたり、水子地蔵があるのはこのためで ある。
 亡くなった人が、輪廻する6つの世界(六道)のどこにいようとも、地蔵菩薩がそれぞれの世界に合わせた姿で現れ救ってくれるという願いが墓地の入り口に多く ある六地蔵にはこめられている。

5.如来

 修行によって悟りを開いた人のことで、仏陀または仏と同義語である。初めは如来は釈迦だけであったが釈迦入滅後、仏教の教義が深く思索されるのに伴って、 釈迦以外の如来として、薬師・阿弥陀・弥勒・大日の各如来が考えられるようになった。
 如来は悟りを開いた後の姿であるから、釈迦の姿のように装身具をつけないシンプルな姿が原則である。 この点は、菩薩が悟りを開く前の姿であるのと大きな違いである。

 (1)釈迦如来

 釈迦牟尼とも呼ばれ、仏法の象徴である。誕生仏説法像・涅槃(ねはん)像が多い。 普通両脇に文殊・普賢の両菩薩を従えている。

 (2)薬師如来

 薬師瑠璃光(るりこう)如来とも大医王仏(だいいおうぶつ)とも呼ばれる。衆生の病苦を救い、心の苦しみを除くなど、十二の願を立てた如来で、日本では 七世紀頃(白鳳時代)から盛んに信仰された。
 左手に薬壺を持つ。脇侍には、日光・月光菩薩を従える。また、経典の中に薬師如来を主とするものがあり、これによって七仏薬師も造られて、天台宗寺院に 祀られた(印旛では松虫寺)。安産を祈る仏として信仰された。

 (3)阿弥陀如来

 王族の太子として生まれ、長い間の修行の末に四十八の大願を成就したという如来。その大願のうち第十八願に、念仏を唱える者は必ず極楽に導くという誓いがあり、 これを「弥陀の大願」という。脇侍に観音・勢至の二菩薩を従える。

 (4)大日如来

 梵語の音訳である。摩訶毘盧舎那如来(まかびるしゃなにょらい)ともいわれ、大いなる仏を意味する。盧舎那仏とは、太陽神崇拝に起源をもつ仏で、 光明遍照という意味であり、仏法の本体を現す仏であるとされる。
 大日如来はこの盧舎那仏をさらに広げたもので、宇宙の根本仏であり、密教経典の中心仏である。

6.明王

 如来の真意を捧持して悪を打破する使者である。忿怒の形相をしており、髪は炎のように燃え、悪を打ち砕くための剣を持っている。この恐ろしい姿は、 一つは人間に内面の反省を求め、自分に勝てと励ます姿、もう一つは仏の教えに耳を貸さない者に脅しをかけてでも信心に顔をむけさせようとしている姿である。

 (1)不動明王

 大日如来が悪を降すためにに忿怒相に化身したもので、火焔で汚れを焼き清め、衆生を守る。 平安時代から現代まで信仰が続いている。印旛地方では成田不動尊が代表的である。
 火焔光背を負い、左手に羂索、右手に剣を持ち座像も立像もある。独尊と三尊の場合があり、三尊の場合は、脇侍に矜羯羅童子(こんからどうじ)と 制吒迦童子(せいたかどうじ)をひかえる。

 (2)降三世明王
   (ごうざんせ)
    軍茶利明王
   (ぐんだり)
    大威徳明王
   (だいいとく)
    金剛夜叉明王
   (こんごうやしゃ)
    愛染明王
   (あいぜん)
    孔雀明王
   (くじゃく)


 これらの明王は、それぞれに人間の怒りや迷いを去り、不幸を除き、敵を降伏させ、幸福をもたらしてくれる明王で、三面三眼多臂多足というような姿で あらわされる。
 愛染明王は繁栄と息災を祈る仏として、路傍の石仏に多い。孔雀明王は病気と災厄をのぞいてくれる明王として、孔雀に乗っている。軍茶利明王は手足に蛇が 巻きついており、大威徳明王は牛に乗っている。

7.天

 仏教以前にインドで信仰されていたバラモン教やヒンズー教の神々が、仏教に取り入れられたもので仏法を守る神とされた。 四天王・梵天・帝釈天・金剛力士・弁財天・吉祥天・鬼子母神・歓喜天(聖天)・大六天や、釈迦如来に付属する八部衆、薬師如来の眷属 (けんぞく)である十二神将、千手観音の眷属である二十八部衆などもあり、種類が多い。
 天部の像は、大きく分けると、武人像・天女像・鬼神像の三つになると言ってもよいだろう。

 (1)四天王・毘沙門天

 四天王は仏教的世界観の中で、その中心にそびえる須弥山(しゅみせん)の四方を守る天で、持国天(じこくてん)・増長天・広目天・多聞天が、それぞれ東南西北を 守る。寺の本堂では須弥壇の四方に置かれる。四天王とも甲冑をつけ、足下に邪鬼をふまえている。
 毘沙門天は福徳と富貴の天として信仰され、後世、七福神の一つになった。吉祥天が毘沙門の妻として一対にして造る場合もある。

 (2)梵天・帝釈天

 梵天はインドの古代バラモン教で、万物の根源とされたブラフマンを神格化したもの。仏教に取り入れられ釈尊の守護神となり、諸天の中の最高の天とされている。 帝釈天もインドの神話の神インドラが仏教に取り入れられたもの。

 (3)金剛力士(仁王)

 金剛杵を手に持って仏法を守る神。金剛神が二分身となって寺の山門の左右に立って仏法を守るのが金剛力士で、二王または仁王と呼ばれる。一方が口を開き、 他方が口を閉ざした形で造られる。

 (4)吉祥天

 インド神話の中の美と幸福の女神でビシュヌ神の妃とされた。仏教に入って毘沙門天の妃になったとされる。奈良時代以来、天下泰平・五穀豊穣を祈る神として まつられた。

 (5)弁財天

 インドでサラスヴァティーという河の神として信仰された。日本では大地を潤して五穀豊穣をもたらす神として信仰され、また、音楽の神としても尊崇された。

 (6)大黒天

 インドや中国で古くから寺院守護・五穀豊穣の神であった。寺院守護の神としては忿怒相の姿で造られたが、我が国では福徳の神として、黒頭巾に肩から袋を背負い、 小槌を持って米俵の上に立つ姿が、南北朝時代(1350頃)から流行したといわれる。

 (7)大六天

 第六天と表記されることもある。 欲界六天の第6、即ち欲界の最高所に宮殿を備えた天魔。身の丈二里、寿命は人間の1600歳を1年とし、1万6000歳の長寿といわれる。
 男女に対して自由に交淫・受胎させることができる力があるとされ、他人の楽しみ事を自由自在に自分の楽しみに変える法力ももっているので、 他化自在天(たけじざいてん)が本当の名である。

 (8)鬼子母神
   (訶梨帝母
   (かりていも))

 もとは他人の子を食う夜叉女であったが、仏に自分の子を隠されて親の悲しみを知り、改心して安産と幼児を守る神になったという。

 (9)歓喜天(聖天)

 インド神話のガネーシャで、魔性の神であったが、のちに仏教に取り入れられて、魔をはらう神となった。 象頭の夫天と猪頭の婦天とが抱き合う姿であらわされる。男女和合、子授け、財宝の神として民間信仰が盛んである。

 (10)八部衆・
     二十八部衆

 インドの神々が釈尊に教化されて、仏法を守る眷属となったもの。

 (11)十二神将

 薬師如来の眷属として造られた。

8.庚申塔

 庚申塔は近世の石造物を代表するものの一つで、全国各地に分布している。 庚申信仰は、平安時代に宮中や貴族の間で盛んになり室町時代には本尊を掲げた仏教的要素を強め、江戸時代になって一般民衆にも浸透して「庚申待ち」として 講が組まれ、 像塔供養も盛んになった。
 古くは庚申待板碑が室町時代に造立されているが、実際には江戸時代になってから石塔が各地に普及していったようだ。 初期は地蔵菩薩や阿弥陀如来が主尊であったのが、徐々に邪鬼を踏みつけた青面金剛の像に三猿や鶏を配したものに定着する。 更にその後「青面金剛」や「庚申」などの文字塔が多くなる。
 日蓮宗ではその主尊を帝釈天としているから「帝釈天王」「釈提垣因天王」が目立つ。また、江戸時代後期からは、神道系の「猿田彦命」を 庚申と して表わす塔も出現している。

*庚申信仰とは
 庚申とは、干支のかのえさるのことで、60日毎に巡ってくる。庚申の夜に眠ると、人の体内にいる三匹の虫が抜け出して昇天し、天帝にその人の罪過を訴え、 命が奪われるので、寝ないで過ごし、夜を謹しんで災難を免れるという行事があり、これを庚申会といった。
 もともとは道教からきたのであるが、 無病息災・商売繁盛の 神にもなった。像塔にある三猿は、悪いことを見ない聞かない言わないという庚申のいましめである。

9.月待塔・子安塔

 2.「講」について をご参照ください。

10.念仏塔
   題目塔
   読誦塔
  (どくじゅ)
   光明真言塔
   刻経塔

 浄土教系の念仏塔。浄土教では「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰でも極楽往生ができると説かれ、念仏を多く唱えればそれだけ多くの功徳が得られるとして 百万遍念仏供養塔などが造立された。
 題目塔は、日蓮宗の「南無妙法蓮華経」を唱える地域で造立される。 読誦塔は経文の読誦記念塔。 光明真言塔は、光明真言を唱える講中が造立した塔。 刻経塔は、宝篋印陀羅尼経を刻み供養したもの。

11.巡拝塔

 巡拝塔は坂東33ヶ所・秩父34カ所・西国33カ所等の霊場を参拝した記念に造立したもの。 秩父34カ所巡拝塔が多いのは、子安講や女人講が定期的に秩父・善光寺参りに行く習慣による。

12.参拝供養塔

 江戸時代中期以降人々は講を組み、奥州出羽三山や伊勢神宮、讃岐の金毘羅、富士浅間など各地の寺社や霊場に代参で参拝祈願に出かけるようになり、帰ると 講中で供養と記念の石塔を建てた。

 (1)出羽三山碑

 出羽三山とは山形県にある羽黒山(414m)、月山(1984m)、湯殿山(1504m)のことをいう。神仏分離が行われた明治まで羽黒山は聖観音菩薩(現世の衆生を 救う仏)、 月山は阿弥陀如来(死後の世界の仏)湯殿山は大日如来(寂光浄土の仏)を本地仏とし羽黒山大権現、月山大権現、湯殿山大権現と呼ばれていた。
 しかし、現在は羽黒山(出羽)神社、月山神社、湯殿山神社と変わり、それぞれ稲倉魂命、月読命、大山祇命・大己貴命の神々を祀っている。そして石碑の中央には 江戸時代は 湯殿山が明治以降は月山が刻まれている。奥州参りとか三山参りといわれる出羽三山へのお参りは、村に生を受け、村で生活し、村に没するもの同士がともに しなければ ならない儀礼と考えられていた。講をつくり借金をしてでも参詣に行ったものだそうで、その年の参詣者はくじびきで代参者を決めることもあったという。
 二世安楽(現世の安穏と来世の極楽往生)、現世利益(天下泰平、国土安穏、五穀豊穣)などの諸願成就を祈願のため、往復1千km超の距離を歩き、 しかも2千m弱の 山を3日もかけて登拝する。往復に1か月超もかかる難行苦行と想像される旅である。

 (2)富士山参拝碑

 富士山も古代から信仰の山とされてきたが、江戸を中心に富士講が組織され富士登拝が盛んになってきたのは江戸時代中期頃からで、登拝とともに各地に富士山に なぞらえた富士塚が作られた。 「仙元宮」「浅間神社」を.中心に関連の石塔が作られた。

 (3)伊勢神宮参拝碑

 伊勢神宮の参拝も「お伊勢参り」として代参が盛んだった。天照大御神を祀る皇大神宮(=内宮)と豊受大御神を祀る豊受大神宮(外宮) の両社に参り、讃岐の金毘羅宮や京都、大阪、奈良に まで足を延ばすことが多かった。

 (4)古峯神社参拝碑

 古峯神社は栃木県鹿沼市にある神社。日本武尊命が祭神。火難・盗難除けの信仰がある。

 (5)三峯神社参拝碑

 三峯神社は埼玉県秩父市にある神社。火難・盗難除けの信仰がある。

 (6)戸隠神社参拝碑

 五穀豊穣の神で作占がよくあたるとされる。

13.神祠・神塔

 寺社の境内や路傍に点在する神祠・神塔は多くその内容も多岐に亘る。

 (1)道祖神

 そのほとんどが石祠。「道六神」「道陸神」などと記すものもある。道の神、境の神、のほか足の病の神として信仰され、祠の隅に草履が奉納されていることもある。

 (2)水神

 弁財天と同じ性格を持ち池の中や水辺に多く建つ。

 (3)稲荷

 個人の屋敷神として一番多い神。

 (4)疱瘡神

 疱瘡除けとその平癒を祈ったもの。

 (5)妙正明神

 市川市北方の妙正寺から発して周囲に広まったもの。疱瘡の神である。

  (6)地神塔(社日塔)

 地神は、春の社日に来て田畑に出て、秋に帰るまで作物を作っている神などといわれ、一般に田の神のように作神と考えられている。 佐倉地方では江戸時代の寛政年間に領主の命令で社日信仰が行われるようになった。

14.寺社

 全国的に知られている寺社ではないが、各地方では知られている寺社を紹介します。

 (1)大杉神社

 茨城県の稲敷市にあり、疫病封じや舟運・漁撈の守護神など古くから厚く信仰されている。 明治13年頃は、コレラや天然痘が日本全国に蔓延し、佐倉地方でも疫病への怖れが人々の心に深く刻まれており、病魔退散を願ったと思われる。

15.おわりに

 以上取り上げたのは、沢山の「石碑」に関する知識のうちの、ほんの一部です。 これを縁として、路傍や寺社の境内にひっそりある「石碑」に興味を示していただければ幸甚です。

佐倉石碑クラブ

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