1.宝樹院
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臨済宗妙心寺派で「金嶺山寶樹禪院」という。本尊は地蔵菩薩で、文和二年(1356年)に夢窓国師によって創建されたと伝えられている。臼井領内臨済宗寺院の筆頭とされている。七間五間の本堂は圓通殿とよばれ、天保以前のものだが元治二年(1865年)に再建の記録があり、昭和43年に再々建されている。本尊のほかに夢窓国師像、臼井城最後の城主原胤栄公坐像とされるものがある。
山門は明和三年(1767年)に建立されたもので、額は白隠禅師によるものと伝えられている。本堂右手に安永八年(1779年)建立の観音堂があり、薬師如来(目薬師)、観世音菩薩、地蔵菩薩、菅原道真公が祀られている。大正4年と昭和53年に改修されている。鐘楼堂は明和六年(1769年)建築、昭和51年に改修されている。鐘楼堂の傍には、昭和60年3月に佐倉市保存樹と指定された樹齢650年(推定)のさざんか樹もある。また山門入って左方には多くの人の寄付により平成15年に落成した五百羅漢堂もある。
なお、明治29年4月17日に開校した志津村立志津高等小学校が明治30年1月8日まで、ここ宝樹院を仮校舎として借用していた。
宝樹院へはユーカリが丘駅の北口の交差点を国道296号を東に行くとすぐに右前方に行く道がある。その道を900mほど行くと右手に宝樹院の駐車場が見える。山門への案内板があるので、これに従って行けばよい。境内の庭園はいつも美しく四季折々の花々も楽しめる。
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2.庚申塔と地蔵群
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山門前の駐車場の入口左側で人々を迎えている。「青面金剛王」の文字のある庚申塔2基と地蔵尊3基がある。
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3.庚申塔
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これらは上記2の写真にある庚申塔である。左の庚申塔からご紹介したい。
上記左の写真の庚申塔は、正面に「青面金剛王」、右側面に「佐倉世ハ人石工市良兵衛」、左側面に「嘉永四亥(1851年)十一月日 上座村講中」と文字が刻まれている。
上記右の写真の庚申塔は、正面に「青面金剛王」、左側面に「嘉永四辛亥(1851年)十一月日」、右側面に「宝樹院現住金慈 願主 傳兵衛、新兵衛、甚兵衛、伊兵衛」と文字が刻まれている。高さは左が77cm、右が90cm。
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4.お地蔵様たち
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このお地蔵様たちは上記2の写真のお地蔵様たちである。木の祠の中に前列に2基の地蔵尊、後列に1基の地蔵尊が佇んでいる。
(1)前列左は、高さ90cm、銘文はないが像容に色が残っており、この3基のうちでは一番新しいと思われる。
(2)前列右の地蔵尊は右側面に「昭和四十二年(1967年)十一月 泉 信」、左側面に「子育地蔵」と文字が刻まれている。高さは61cm。
(3)後列の地蔵尊は、高さが130cm。台石正面に「世話人 傳兵エ 、次良右衛門」の文字が見えるが、その他の銘文は確認できなかった。
この地蔵尊はその昔、熊野神社の前を通る道路と宝樹院の山門前の駐車場から出て左折して少し下る道が交わった所に立っていて、宝樹院がすぐ近くだと教えていたという。
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5.石碑
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上記4記載の地蔵尊3基が祀られている祠の右前にある石碑である。石碑の正面には「願主自窮道者」、右側面には「宝暦六丙子稔(1756年)」、左側面には「仲春(2月)吉日」と文字が刻まれている。高さ約30cm。
この石碑にある自窮道者(自ら道を窮める者)が誰なのかは分からないが、これらの地蔵尊をお守りしたいとの願いで造立したのだろうか。
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6.巡拝塔と大師堂
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山門前の駐車場の左側の石塀の前に、前後2列の巡拝塔と大師堂が建っている。巡拝塔は、前列に5基、後列に6基建てられている。大師堂は、大正時代の「千葉県印旛郡誌」にもその存在が記載されている。六崎十善講の札所で毎年4月白装束の人々がお詣りに来るという。
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7.巡拝塔
その1
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上記6の写真の前列の左端に位置する。正面中央に「秩父三十四番供養塔」、その右側に「平成元年(1989年)三月二十五日参拝」、正面の左側には「平成二年(1990年)十一月十八日建之」、正面の下部に「花島順子 (他23名の女性の名)」が刻まれている。高さ194cm。
秩父三十四番(または所)は、埼玉県秩父地方の観音霊場であるが、総距離が100km程度と比較的短く、関所もないことから江戸時代女性にも5~6日の癒しの旅ができる場でもあった。
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8.巡拝塔
その2
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上記6の写真の前列左から2番目の巡拝塔である。正面中央に「秩父三十四番供養塔」、その右に「昭和五十七年(1982年)三月二十五日参拝」、正面の左側には「昭和五十七年(1982年)九月建之」、正面下部には「京葉観光センター三橋正之助 中村とみ(他42名の女性の名)」が刻まれている。高さ191cm。
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9.巡拝塔
その3
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上記6の写真の前列の左から3番目に位置する。正面に「秩父三十四番供養塔」、その右に「昭和四十三年(1968年)十月二十八日参拝」、正面左側には「昭和四十三年(1968年)十二月十八日建之」、正面下部に「城北ツーリスト三橋正之助 岩井あさ子(他41名の女性の名) 出山石材店刻」と文字が刻まれている。高さ161cm。
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10.巡拝塔
その4
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上記6の写真の前列左から4番目に位置する。銘文はかなり読みづらくなっているので、平成4年佐倉市石造文化財調査カードの記載を参考に刻まれた文字を紹介する。
正面中央に「秩父 坂東 三十四番供養塔」、その右には「昭和四十六年(1971年)四月十八日参拝」、正面の左側には「昭和四十六年(1971年)七月八日建之」、正面下部には「先達 中村良助(他1名の名) 会計 川村しず 岡田さく(他26名の名)」が刻まれている。高さ124cm。
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11.巡拝塔
その5
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上記6の写真の前列の左から5番目、つまり右端に位置する。正面中央に「秩父三十四番供養塔」、その右側に「昭和四十一年(1966年)四月三日参拝」、正面の左側には「昭和四十一年(1966年)七月吉日建之」、正面下部には「先達 中村誠 世話係 中郷アサノ(他1名の名) 岩井きく(他9名の名)」が刻まれている。高さ153cm。
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12.巡拝塔
その6
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上記6の写真の後列の一番左に位置する。正面中央に「秩父三十四番供養塔」、その右側に「昭和三十年(1955年)四月十九日参拝」、正面の左側には「昭和三十年(1955年)七月吉日建之」、正面の下部には「先達 三橋達夫(他5名の男性の名) 花島きく(他26名の女性の名)」が刻まれている。高さ162cm。
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13.巡拝塔
その7
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上記6の写真の後列左から2番目に位置する。正面中央に「秩父 坂東 三十四番供養塔」と文字が刻まれている。台石の文字は判読できなかったが、平成4年佐倉市石造文化財調査カードによれば正面に「志津村上座区 先達 中村市郎兵エ(他2名の名) 三橋チカ(他23名の名)」、裏面に「大正三年(1914年)五月一日建之 同行廿七人」と刻まれている。高さ155cm。
なお、坂東とは、関東地方に散在する33カ所の観音霊場である。
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14.巡拝塔
その8
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上記6の写真の後列左から3番目に位置する。正面上部右に「秩父」、正面上部右に「坂東」、それらより下部中央に「三十四番供養塔」、正面下部に「志津村上座 先達 花島伸吉(他3名の男性の名) 三橋時トキ(他33名の女性の名)」が、裏面には「昭和九年(1934年)四月建之」と文字が刻まれている。高さ133cm。
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15.巡拝塔
その9
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上記6の写真の後列左から4番目に位置する。正面上部の右に「秩父」、正面上部左には「坂東」、それらの下部正面中央に「三十四番供養塔」と、正面の左側に「昭和二十五年(1950年)四月廿七日参拝」と文字が刻まれている。なお、平成4年佐倉市石造文化財調査カードによれば台石正面に「上座 花島庫吉 先達 三橋宇之助(他3名の名) 三橋はる(他34名の名)」が刻まれている。高さ161cm。
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16.巡拝塔
その10
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上記6の写真の後列左から5番目(右から2番目)に位置する。正面上部に右から横書きで「秩父」、その下正面中央に「三十四番供養塔」と、台石正面には、平成4年佐倉市石造文化財調査カードによれば「志津村上座区 先達鈴木辨蔵 同行中 三橋タカ(他14名の名)」が刻まれている。裏面には「大正二年(1913年)四月建之」と文字が刻まれている。高さ128cm。
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17.巡拝塔
その11
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上記6の写真の後列左から6番目(右端)に位置する。正面上部右側に「奉順禮」、その左に「坂東三十三番」、「秩父三十四番」、正面中央下部に「供養塔」、正面下部の左側に「女人中」と文字が刻まれている。
台石正面には平成4年佐倉市石造文化財調査カードによると「志津村上座区 先達 中村平五郎(他2名の名) 斉藤ジャウ(他14名の名) 三橋クマ(他18名の名)」が刻まれている。年代不明。高さ118cm。
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18.お大師様
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上記6の写真の右端の建物が大師堂である。このお堂の中には上記写真の2基のお大師様が祀られている。
(1)右の小さなお大師様は台石正面に「明治八亥(1875年)四月廿一日 講中」と文字が刻まれている。高さ26cm。
(2)左のお大師様は動かせない為銘文が確認できなかった。高さ42cm。
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19.六地蔵・
観音群・
二十三夜塔
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山門前の駐車場の右側に建っている。屋根の下に六地蔵、その斜め左後方に観音菩薩群、最後列に6基の二十三夜塔が建っている。
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20.六地蔵
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上記19の写真にある六地蔵である。地蔵ごとにその真後ろに石柱が建っている。向かって左の端の地蔵の真後ろの石柱には正面に「地持(ちじ)地蔵菩薩」、右側面には「宝暦六丙子(1756年)」と、左から2番目のには「鶏兜(けいとう)地蔵菩薩」、左から3番目のには「宝印(ほういん)地蔵菩薩」、左から4番目のには「宝陵(ほうりょう)地蔵菩薩」、左から5番目のには「陀羅尼(だらに)地蔵菩薩」、左から6番目(=右端)の石柱には正面に「法性(ほっしょう)地蔵菩薩」左側面に「上座村男女講中」と、文字が彫られている。
亡くなった人が、輪廻する6つの世界(六道:天道、人道、修羅、畜生、餓鬼、地獄)のどこにいようとも、地蔵菩薩がそれぞれの世界に合わせた姿で現れ救ってくれるという願いが六地蔵には込められている。昔から地元の上座の人々の心の拠り所であったことが感じられるお地蔵様である。高さはいずれも60cm前後。
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21.観音群
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上記19の写真の六地蔵の斜め左後ろ側に建つ4基の観世音菩薩である。前列に2基、後列に2基建っている。前列の左は石仏では数少ない千手観音像が彫られている。前列右と後列左は聖観音像が、後列右は十一面観音像が彫られている。以下にこの4基を紹介したい。
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22.観音菩薩
その1
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上記21の写真の前列の左に位置する。正面に彫られている像は千手観音で左側面には「文化十二乙亥(1815年)十一月吉日女人講中」と文字が刻まれている。高さ67cm。
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23.観音菩薩
その2
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上記21の写真の前列の右に位置する。正面の中央に聖観音像が彫られ、その右側に「奉順禮秩父三十四所為二世安楽」、右側に「明治十二卯(1879年)三月吉日」と文字が刻まれている。高さ72cm。
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24.観音菩薩
その3
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上記21の写真の後列左に位置する。正面中央に、聖観音像が彫られ、その右側に「奉順禮西國三十三所為二世安楽」、左側に「文化四丁卯天(1807年)二月十八日」、正面下部には「上座村伝左エ門(他6名の名)」、台石に正面に「先達 花島傳兵エ(他1名の名) 中野仁エ妻はる(他6名の名)」が刻まれている。高さ112cm。
西國三十三所は、近畿地方に散在する、観音信仰で有名な33カ所の霊場を、順番を追って参詣するコースである。当地からは相当遠い霊場を歩いて踏破した先人たちの偉大さを感じる石仏である。
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25.観音菩薩
その4
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上記21の写真の後列の右に位置する。正面に十一面観音像が彫られている。銘文は認められない。高さ92cm。
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26.二十三夜塔群
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山門の前にある前記の六地蔵と観音群の後ろにこれらの石塔が6基建っている。これらは元々上座字台口(ユーカリが丘駅北口の交差点から国道296号を東に行くとすぐに右前方に道があり、その道を100m入った現在飲食店のある所、その昔地蔵堂があったという)にあった高さ5m程の塚の上に立っていたもので、その後熊野会館の傍に移転、現在はここ宝樹院に安置されている。
二十三夜に講中が集まり、勤行・飲食をともにし、月の出を待つ行事を二十三夜の月待という。この夜の本尊は勢至菩薩といわれ、精進すること、同衾を忌むこと、この夜妊娠をすると障害を負った子が生まれるなどの言い伝えもある。当初あった場所付近では、昭和の初めまでは二十三夜講の信仰が盛んであったそうだ。
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27.二十三夜塔
その1
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上記26の写真の二十三夜塔群の左端に建っている。正面に「二十三夜」、左側面に「文政十亥(1827年)十一月」の文字が、右側面の下部に「上座村 世ハ人 市蔵 他2名の名」が刻まれている。高さ83cm。
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28.二十三夜塔
その2
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上記26の写真の二十三夜塔群の左から2番目に建っている。正面中央に「廿三夜」、その右側に「天保十三壬(1842)年」、正面左側には「二月吉日」と、右側面下部に「平五郎 四良右エ門」と文字が刻まれている。高さ43cm。
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29.二十三夜塔
その3
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上記26の写真の二十三夜塔群の左から3番目に建っている。正面に「二十三夜供養塔」、左側面に「安政四巳(1857年)十月吉日」と文字が刻まれている。高さ81cm。
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30.二十三夜塔
その4
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上記26の写真の二十三夜塔群の左から4番目に建っている。正面中央に「二十三夜塔」、その右側に「明治二十三年(1890年)」、正面の左側には「三月吉日」、左側面下部に「太田石蔵」と文字が刻まれている。高さ20cm。
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31.二十三夜塔
その5
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上記26の写真の二十三夜塔群の左から5番目に建っている。正面中央に「十三夜様」、その右側に「大正五年(1916年)」、正面左側には「三月吉日」と文字が刻まれている。高さ41cm
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32.二十三夜塔
その6
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上記26の写真の二十三夜塔群の左から6番目(=右端)に建っている。正面に「二十三夜塔」、裏面に「太田政治(他60名の名) 昭和五年(1930年)十一月十三日建 久々田 石信」、台石正面には「講中」と文字が刻まれている。高さ140cm。
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33.お寺の標石
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山門に向かって左側に建つ。正面に「臨済宗 金嶺山 宝樹禅院」、裏面に「昭和五十五年(1980年)九月吉祥日 施主 太田金一」と文字が刻まれている。高さ265cm。
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34.石灯籠
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山門を入って本堂へ続く道の左側にある。正面に「献灯」、裏面に「潭道士誠和尚三十三年忌記念 平成元年(1989年)五月吉祥日 八幡台 佐藤譲寄進」と文字が刻まれている。高さ166cm。
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35.層塔
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本堂に向かって左側に建つ十三重の仏塔である。高さ約6m 、基礎の正面に「献灯」、基礎裏面に横書きで「佐倉市上座五九〇ー三 昭和五十五年(1980年)八月吉日 屋号 豚屋 施主 花島由明 君枝」と文字が刻まれている。
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36.常夜燈
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本堂前に2基の常夜灯が建っている。いずれも正面に「献灯」の文字が刻まれている。
(1)本堂向かって左に位置する常夜灯は、基礎の裏面に「佐倉市上座一一九〇ー一 昭和五十五年(1980年)六月吉日 花島よし建之」と文字が刻まれている。高さ390cm。
(2)本堂向かって右に位置する常夜灯は、基礎の裏面に「昭和五十五年(1980年)八月吉日 為清雲院大秀良光信士菩提 施主 杉田節子」と文字が刻まれている。高さ390cm。
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37.千葉家三士戦死
供養塔
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観音堂の方から鐘楼堂の方に向かって歩くとサザンカの古木の陰のあたりにこの碑がある。正面の右側に「明治丗五年(1902年)五月廿五日」、正面中央に「千葉家三士戦死霊」、正面の左側に「小竹村山﨑ス〇建」と記されている。高さ約40cm。
戦国時代、手繰り川付近で激戦があり、多くの戦死者が出た。その千葉家由来の武士の遺骸を葬った耳塚(みみづか)が、上座の不動堂の裏手の方にあったという。宅地にするに伴い、この碑を建てここ宝樹院に祀るようになったという。
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38.小谷茂信翁碑
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観音堂の横、本堂の前から墓地に入る所の木陰に佇む黒い碑である。文字が見ずらくなっているが、正面上部に右から横書きで「小谷先生の墓」と読むことができる。その他の銘文については、平成3年3月佐倉市発行の佐倉市史研究第10号所収の八重尾等氏の「志津の歴史散歩その二」に漢文によるものとその通釈文が掲載されている。通釈は次のとおりである。
「小谷茂信先生は通称留弥といい知渓と号された。佐倉藩士の小谷茂英の四男である。明治三年(1870年)、私塾を印旛郡上座に開設して子弟を教育された。
明治五年(1872年)学制が布かれたので私塾を廃止し、翌六年(1873年)公立の上座小学校ができたので教師となり、専心生徒の授業に当たり、教鞭を執ること十余年の後、職を辞められ、次いで村役場の書記長となり在職四年間職に従事された。
先生は人と為り温厚篤実、名利を求めず、虚飾をつつしみ、教育・自治在職の間専用心周到に事理に当たり適切に時務を処せられたため村民は心から敬服し、今に至るまでその徳を称揚しない者はない。近頃先生の教を受けた者や親友親者達が頌徳建碑を相談しあい、この碑は成った。これ偏に先生の恩誼に報いようとする只管な誠心から出たものに外ならないのである。」
最後に「大正四年(1915年)一月 養壽園 横山金治 撰 宇津木行蔵 書 門下生一同」と文字が刻まれている。高さ約190cm。
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