1.生谷山の神神社
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「生谷山の神神社」への経路は以下の通りである。京成臼井駅南口から染井野方面へ向かう広い道路
(通称「くすのき通り)を直進、3つ目の信号(バッティングセンターが傍にある)を右折する。次の角を左折、
その次の角を右折し保育園の裏の通りを直進、3つ目の角を左折すると、王子台4丁目の住宅地を抜けて、
左右に畑地が残る生谷に出る。そのまままっすぐ進むと左方にゴルフ練習場のネットが見え、まもなく左手に
「生谷山の神神社」が見える。京成臼井駅からは約1.3km16・7分ほど歩いた所である。入口そばに土俵がある。
テニスコート一面くらいの広さの神社である。散歩の人が時々お参りする姿が見られる。
以下、当神社にある石造物を紹介したい。
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2.覆屋と御神灯と
石灯籠
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境内に入ると、上記写真のように手前に御神灯、その先に石灯籠、石灯籠のすぐ後ろには簀の子のような
板壁の覆屋があり、覆屋の中に祭神を祀る木造の祠が収められている。
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3.御神灯
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上記2の写真の一番手前の左右に建っている。高さは宝珠が欠けている左が140cm、右が147cm、両方ともに、
竿の正面に「御神燈」、竿の裏面に「明治六年(1873年)酉二月」と文字が刻まれている。また左右共に中台と台石に
出捐者の名と金額が刻まれているようだが、右の御神灯は剥落が激しく文字の判読は困難である。左の御神灯の中台には
正面に「金二朱 久造 他3名 金一朱 民造 云々」、中台左側面にも判読は困難だが文字が刻まれている。
台石正面には「東京深川 野口庄三郎 野口手代信〇 金一両二人 中村保治郎 佐倉上町 云々」
台石左側面にも「安蔵 倉吉 金三朱 云々」と文字が刻まれている。「東京深川 野口庄三郎」はおそらく
深川の材木商で政商と言われた二代目野口庄三郎の跡継ぎと思われる。当時深川佐賀町には、廃藩置県後佐倉から移住した
堀田正倫(佐倉藩の最後の藩主)の邸宅があり、そこの出入りの材木商と推測される。現在佐倉市鏑木に残る旧堀田邸
(国の重要文化財)の木材は深川の材木商が資材を調達し明治23年に竣工している。
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4、石灯籠
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覆屋の前にある石灯籠は、左右とも高さ156cmで、右の石灯籠の竿の部分正面に「奉」、左の石灯籠の竿正面に
「納」、左の石灯籠竿裏面に「昭和四十七年(1972年)十月細谷敏治建之」と文字が刻まれている。
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5.大山祇神の祠
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神社の覆屋内の木造の祠(上記写真)の中に、この神社の祭神の大山祇神(おおやまづみのかみ)が祀られている。
大山祇神は、記紀神話の山の支配神である。伊邪那岐尊・伊弉冉尊の御子で、山の神とされる。名義は「山の神霊」
である。
山ノ精霊が神格化されたのは相当古く、水源や田の稔りも支配するので、水の神・田の神としても信仰されていた。
上記写真は簀の子のすき間から撮影したものである。
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6、由来碑と力石
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神社の入口から見て覆屋の右手に、山の神由来記碑と力石が建っている。この碑には神社の由来と同時に力石の由来も
記載されている。以下に碑文を紹介する。
「山の神由来記 江戸時代、この辺り一帯は佐倉藩の御林であった。延享三年(一七四六年)正月、出羽山形藩主
であった堀田正亮は、老中就任に伴い佐倉藩主となった。この折り、同地の山の神神社から分神、遷座され、山林の
守り神としてこの地に建立されたものである。毎年祭礼が催されている。 力石の由来記 雷電為右衛門が臼井に
居た一八一〇年頃、当神社でも境内に土俵を作り、相撲の指導を行ったといわれている。また、祭礼には奉納相撲が
行われるようになった。その頃、当地出身で雷電の弟子で「天の川」という力士が、持ち上げて褒美にもらい受けた石
が、推定一二〇キロといわれる「力石」である。 平成八年十月吉日 真野真道改め 万五郎撰 この由来記は
佐倉都市環境整備生谷基金によって建立されたものである。 平成十三年(2001年)八月吉日 佐倉市生谷神社役員」
この由来記碑の高さは172cm、力石は高さ26cm・幅47cm・奥行33cmである。
御林とは藩有林のことである。明治時代になってこの辺りは「大林」と地名が変えられた。「大林」は現在王子台
六丁目の「大林公園」にその名をとどめている。
雷電については当ウェブサイトの京成臼井駅北側エリアの「8妙覚寺」の「3雷電顕彰碑」をご覧いただきたい。
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7.山神社碑
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前記5の大山祇神の祠の裏側に同じ土台の上にこの碑は建っている。覆い屋に近接しており正面は覆い屋の陰となっている。
その爲文字は見ずらく下の台石部分を入れた写真撮影はできなかった。全高187cm、本体の高さは126cm、2段の台石がある。
本体の正面(上記の左の写真)には縦書きで「山神社」、本体裏面(上記の右の写真)の上部に縦書きで右から「山神社 八幡社 仙元社 水神社」、
本体裏面中央に縦書きで「奉納金百圓永代修膳費資本積置」、本体裏面の左に縦書きで「明治二十二年(1889年)九月廿五日名石建立」と文字が刻まれている。
本体の下の台石正面の右端に「生谷村惣連名」その左に「氏〇」その左から人名が刻まれているが劣化が激しく「市原〇右衛門」以外は判読困難である。
台石の裏面にも「市原」や「真野」などの名が読み取れるが中央付近に「志願人 真野新五右エ門」、その左に「佐倉田町 石工〇吉」の文字が判読できる。
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