この公園の南西の角にこの高さ凡そ4mの碑が建っている。裏面に「一夜城史跡」と大きな文字が刻まれている。
正面にはこの碑の由来が記されている。以下に碑文を紹介したい。
「 謙信一夜城の由来
臼井台上円能の此の地は戦国時代の勇将上杉謙信が兵馬を進めた城跡である。入道謙信その名は長尾景虎で越後国春日山城主
であるが管領上杉憲政に頼まれ関東進出を決意し 永禄四年(1561年)鶴岡八幡の社頭にて関東管領とその名跡をうけ初めて
上杉氏を名乗り 関東の各地に参陣した 先に房総の風雲は北條氏綱の侵攻で天文七年(1538年)安房の里見義堯らを破り
佐倉城主千葉氏らは以後北條氏の勢力下となった この勢威を打ち破ろうとしたのが謙信の宿願で 既にして上越国境を超え
関東政略に陣頭指揮すること数十回に及ぶ 時に永禄九年(1566年)春上州に入り 下総小金を経て同年三月臼井城下に着到した
守勢の臼井城主原胤定は佐倉城主千葉介胤富の援護を得て 両軍満を持して動かざること月余たり さる程に上杉氏の陣営に
足利将軍の上洛を促す書状も着した情勢でもあって 翌四月越後へ引揚げた 当臼井駅南土地区画整理組合は工事の一環として
この城址の発掘調査をなし 中世城郭の遺構も確認され、往時を追懐すると共に天地万霊の回向のため碑を建立した次第である
昭和五十八年(1983年)七月吉日 佐倉市史編纂主任 篠丸頼彦 撰文 佐倉市臼井駅前土地区画整理組合 建立
光堂長津正雄印」
現在は平坦な住宅地の公園だが、往時は臼井城の大手門の東南の方向にあり、臼井城からは南方の王子臺(おーじんで)
と呼ばれた台地の上に四面高さ「一丈五尺」の大土堤を築いて臼井城攻略の本営を上杉謙信は置いた場所である。
この永禄九年の戦いでは、臼井城の攻防は大変な激戦で、一説には上杉方五千人余の戦死傷者を出したとも言われている。
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