天御中主神社

 (住所:佐倉市上志津962番地)

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1.天御中主神社

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 御祭神は天御中主神(あめのみなかぬしかみ)、創建は寛永三年(1626年)十一月十五日である。 この神社は明治元年の神仏分離令以前は、千葉氏の氏神である妙見菩薩(北極星を神格化したもの)を祀っていた。 現在の社殿は寛永三年(1626年)に、付近の八幡神社と同じ時期に建てられたと伝えられている。 この神社を含むこの一帯は、志津城跡と考えられ、中世には志津氏或いは千葉氏系統の豪族の館があったとされている。 平成十二年二月には社殿の裏山から、中世の常滑焼の大甕が出土し、中から人骨、古銭。カワラケなどが見つかっている。 ここへの行き方は以下のとおりである。京成志津駅南口の駅前通りを南に直進、「水道道路」を渡り次の信号 (右角に歯科医院がある)を右折、緩やかな坂を上っていくとss15A上志津石仏群のある交差点に出る。 この信号のある交差点を左折し70m程歩き、右折して細い坂道を250mほど下っていくと三叉路にぶつかる。 その交差点の左方に「天御中主神社」の標石と鳥居がある。京成志津駅から1km強、歩いて15分くらいの緑豊かな神社である。   なお、当神社は付近の八幡神社とともに平成24年12月に佐倉市市民文化遺産に選定されている。

2.狛犬

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 上記1の写真の鳥居をくぐり石段を登り切ると左右に神社を守る狛犬が建っている。 左の狛犬は台石正面に「献」の文字が刻まれている。、右の狛犬は台石正面に「奉」、 台石裏面に「平成元年十二月吉日 志津泰一建之 施工高橋石材興業」と文字が刻まれている。 どちらも高さ160cm。

 

3.手洗石

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 狛犬の方から見て右前方にある。正面と右側面には細かい字で寄附者と金額がびっしり刻まれている。 左側面には「明治二十年(1887年)五月吉日 発起人 志津四良兵エ 世話人 豊田軍蔵(他2名)」 と文字が刻まれている。高さ38cm。

4.両社鳥居建設
  記念碑

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 狛犬の方から見て右前方、手洗石の先に建っている。文字はかなり薄れている。正面最上部に右から「両社鳥居建設記念」 と篆刻されている。その下に右から横書きで「寄附者芳名」と刻まれ、その下にはたくさんの寄付者の名前と金額が刻まれている。 裏面には縦書きで「昭和十一年(1936年)三月吉日 発起人小沢吉兵衛(他12名) 社掌山本吉蔵」と文字が刻まれている。 「両社」とはこの天御中主神社と付近の八幡神社であり、両社とも地元の方々に大事な神社である。高さ約190cm。

5.社殿

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 狛犬の方から見て正面にこの社殿はある。現在の本殿は明治30年(1897年)に建てられた 茅葺の建物で見事な彫刻が施されている。彫刻は、茨城県稲敷郡柴崎村大字角崎、小林寅次郎の彫によるもので、 「来迎雲に翁と姥」などおめでたいものが彫られている。

6.天満宮

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 上記5の写真中、社殿の左隣に見える祠の中にこの石塔は祭られている。正面に「天満宮」左側面に「菅原道真(菅丞相)」。 裏面に「平成元年十月吉日建之 氏子中」と文字が刻まれている。高さ74cm。

7.蚕神供養塔

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 狛犬の方から見て左前方の奥、上記6の天満宮よりも境内の奥にある。正面に「蠶神」、台石正面に「建設発起人  蜂谷稲蔵(他10名) 志津藤次郎(他18名)」、台石右側面には「蜂谷利助(他10名) 明治四十二年(1907年)四月建之」 と文字が刻まれている。高さ118cm。  絹製品を生産する産業(主に養蚕業:製糸業)は、幕末の横浜開港以来、戦前まで国策として振興され、 国の成長を支えた。養蚕は換金率がよく農家経営の大きな支えだった。昭和10年代まで農家では大なり小なり 副業として蚕を育て繭を出荷していた。蚕は卵から幼虫になり、4度脱皮してさなぎになり、さなぎが糸を吐いて繭玉になる。 繭玉を湯に通し繭玉から糸を繰り出して生糸を作り出す。この生糸から絹織物が作られていく。 蚕は神虫とも呼ばれ、養蚕(かいこ)はお蚕(こ)さま⇒お子さま(安産・子授)につながり、 繭から糸を取り出す際に蚕そのものは熱湯で殺すことになって、蚕という生き物を供養するという信仰につながったようだ。

8、疱瘡神供養塔
  その1

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 社殿に向かって右の石段を登ると登り切った所の右方に建っている。正面の扉を開けると中央に 「疱瘡大權現」右の列に「大天狗」左の列には「小天狗」と文字が刻まれている。右側面には「志津四良右エ門  建之」。右側面には「大正七年(1919年)五月」と文字が刻まれている。高さ60cm。  疱瘡(=天然痘)は古来より感染力が強く死亡率の高い流行病で人々から大変恐れられていたが、 牛痘ワクチンの予防接種の普及により1980年にWHO(世界保健機構)の総会で世界天然痘根絶宣言がなされた。 しかしながら大正7年の頃は予防接種の普及も不完全で前年の大正6年には日本全国で天然痘が大流行し 子供を中心に5122人が罹患し935人の死者が出ている。ここ上志津も例外でなかったようだ。 人々は疱瘡神供養塔を建て疱瘡に罹らないよう、かかっても軽く済むようにと疱瘡神に祈った。

9.大山講碑

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社殿に向かって右の石段を登ると登り切った所の正面に祠が建っている。この祠の中に2基の石造物があるが、 大山講碑は右方に建っている。正面中央に「石尊大權現」右の列に「大天狗」左の列には「小天狗」と文字が刻まれている。 正面下部は摩耗が激しく文字の判読は困難であるが、平成4年佐倉市石造文化財調査カードによれば「 願主 平三郎(他12名)」と文字が刻まれている。左側面には「文化十二年(1815年)」、 右側面には「亥八月吉日」と文字が刻まれている。高さ72cm。  「石尊大権現」とは、丹沢山地の南東部にある大山(標高1251m)の山頂の岩石を神格化したものである。 山の頂にある岩に神々が降り立つと信じられたため石尊の名がついた。ここでいう神々とは、 大山が雨降山(あめふりやま)と呼ばれたように、雨乞いの神、農業の神である。 江戸時代には関東全域で大山阿夫利神社を中心とする山岳信仰の講社が広まり、 大山詣りをする人々で大山はにぎわった。また、大山は富士山・江ノ島弁天詣りと3カ所を回る江戸時代の人々の観光コースでもあった。

10.疱瘡神供養塔
   その2

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 前記9の大山講碑の左隣りに建っている。正面に「疱瘡神」、左側面に「大己貴命(大國主命)」、 裏面に「平成元年十二月吉日 氏子中」と文字が刻まれている。高さ71cm。おそらく以前にあった 疱瘡神塔が毀損した為立て直したものと思われる。成田街道に近接している井野町の稲荷神社にも 再建した疱瘡神供養塔がある、成田街道に近いこの地域の人々の中に疱瘡への恐れが残っているのであろう。

11.富士講碑

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 前記8と9の石造物がある祠の左後方にこの碑は建っている。正面に月輪、日輪、瑞雲、それらの下に山型、 〇の中に「不二」、その下に「淺間大神」と刻まれ、裏面には「明治廿五年七月十九日立之」と文字が刻まれている。 台石裏面には「上志津区 蜂谷伊助(他12名) 社長 志津四良兵エ 幹事 蜂谷巳之助(他3名)と文字が刻まれている。 高さ105cm。

佐倉石碑クラブ

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