千手院

(住所:佐倉市井野15)

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1.千手院

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 井野にある千手院は、正式名称を「稲野山(いのさん)千手院金剛盤形寺」と号し、千手観音を本尊とする真言宗豊山派のお寺である。創建は天平年間(729~749年)と云われ、臼井の石神(現在の稲荷台4丁目)に蓮華王院金剛般若寺と号し、 のち明徳3年(1392年)に兵乱に遭遇するのを恐れた僧澄秀が大檀那の小竹高胤に願って井野に移転し、千手院と改称したと伝えられている。千手院は醍醐三宝院を本寺とし、のち長谷寺の末寺となった。江戸時代には醍醐三宝院傘下の諸寺院を統括した中本寺の寺格であった。残念ながら同寺は明治6年に火災で、記録文書をことごとく焼失したため正確な由来をしるすことは不可能である。  同寺の「金銅五鈷杵」は密教法具の一つで江戸時代末ごろの作で、「密教法具の古型を知る上で貴重なもの」として佐倉市の指定文化財となっている。  千手院は「千葉寺十善講八十八ヶ所」の第57番札所であり、近くにある井野会館前の三叉路には弘法大師供養塔兼道標が建てられている。
 明治12年(1879年)頃から明治34年頃まで、同寺住職の渡辺阿刀が中等教育施設が志津村になかった為開いた中等教育の私塾て「渡辺塾」には、近郷から常時50名前後を下らない生徒が学んでいた。
 同寺の境内は広く、下記2の境内配置図の通りA~Eの5つのブロックに分けて、石碑・石仏を紹介していきたい。
なお以下の石碑・石仏の種類名の下にあるアルファベットと数字は、ブロック名とそのブロック内の何番目の石碑・石仏かを表示したものである。

2.境内配置図

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A:ブロック:入口から本堂へと続く参道の右側の区域
Bブロック:入口から本堂へと続く参道の左側の区域
Cブロック:本堂の向かって左側で且つ大師堂の裏側の区域
Dブロック:大師堂と大日堂の前の区域
Eブロック:寺院の墓苑の前、境内入口の方から見てDブロックの左側の区域
1:本堂、2:大師堂、3:大日堂、4:境内入口   

3.延命地蔵
  A1

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 上記2のAブロックの境内入口から一番目にある。同寺を訪れると先ずこの地蔵尊に手を合わせたくなる石仏である。
 右手に錫杖左手に宝珠を持つ地蔵菩薩の坐像が上部にある。台石の正面には右から「六十六部回國行者井野村 毎月晨朝入諸定人諸地獄令離苦 本願經白 無仏世界度衆生今世後世能引導 宗心慈性建之」と文字が刻まれている。 台石左側面には「干時元文五庚申天(1740年)十月廿四日 開眼供養道師 千手院丗二世助衆直西 法印快昌同妙感」と文字が刻まれている。台石右側面には「勧化(かんげ)村方 保品村(他9村)」の文字が刻まれている。 おおよその意味は次の通りである。
 「人々の日々の苦しみを取り除き現世来世の衆生を救い導く」という地蔵菩薩の誓いを本願として、廻國行者である井野村の宗心慈性がこの石塔を建てた。その開眼供養は千手院32世の法印快昌が導師を勤めた。 建立にあたっては保品村等十カ村を勧進して寄付を募った。
 多くの人々の協力により建てられたことが分かる。高さ124cm。

4.子安塔
  A2

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 上記2のAブロックの境内入口から2番目にある。刻まれた文字は赤字で逆修塔(生前供養塔)である。正面に子安観音が刻まれ、台石正面に「子安講中」の文字が刻まれているだけである。高さ113cm。

5.秩父参拝碑
  A3

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 上記2のAブロックの境内入口から3番目にある。正面中央に「秩父三十四番参拝記念」、正面の右端上部に「供養塔」、その左隣に「平成十三年三月二十八日参拝」、正面の左端に「平成十三年十二月吉日建之」、下部に「世話人 奥津徹夫(他2名の名)  藤代正春(他20名の名)」が刻まれている。高さ123cm。

6.子安塔
  A4

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 記2のAブロックの境内入口から4番目にある。刻まれた文字は赤字の逆修塔(生前供養塔)である。正面に子安観音が刻まれ、台石正面に「子安講中」の文字が刻まれている。台石左側面に「石川昭次(他2名の名) 石川利子(他12名の名)」、台石右側面に「在原篤子(他14名の名)」が刻まれている。高さ85cm。       

7.秩父参拝碑
  A5

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 上記2のAブロックの境内入口から5番目にある。正面中央に「「秩父三十四番参拝記念」、正面の右端に「昭和六十二年(1987年)三月十五日参拝」、正面の左端に「昭和六十二年七月吉日建立」、、正面下部に「世話人 石川昭次(他3名の名) 石川利子(他30名の名)」が刻まれている。高さ140cm。 

8.Bブロックの
  石造物群

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 記2のBブロックに建つ石碑・石仏である。ここには23基の石碑・石仏がある。上記写真左の方が境内入口である。境内入口に近い所にあるものから同写真の右の方にある本堂に向かって石碑・石仏を紹介したい。

9.秩父参拝碑
  B1

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 上記8の写真の左から1番目に建っている。正面中央に「秩父三十四番供養塔」、正面の右に「昭和四十六年(1971年)十一月七日参拝」、正面の左に「昭和四十七年二月吉日建之」、下部は「世話人 奥津國男(他4名の名)  藤代みち子(他30名の名)」の文字が刻まれている。高さ131cm

10.秩父参拝碑
   B2

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 上記8の写真の左から2番目に建っている。正面中央に「秩父三十四番供養塔」、正面の右に「昭和三十七年(1962年)三月廿五日参拝」、正面左に「昭和三十七年十一月吉日建之」、下部は文字が読みづらくなっているので平成4年佐倉市石造文化財調査カードによると「世話人 森谷育蔵(他3名の名) 高橋光蓮(他26名の名)」が刻まれている。高さ142cm。

11.秩父参拝碑
   B3

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 上記8の写真の左から3番目に建っている。正面中央に「秩父三十四番供養塔」、下部に「先達 村山治雄(他2名の名) 村山テル(他18名の名) 昭和廿七年(1952年)十二月建之」と文字が刻まれている。高さ149cm。

12.秩父参拝碑
   B4

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 上記8の写真の左から4番目に建っている。正面中央に「秩父三十四番供養塔」、正面の左に「昭和十七年(1942年)一月建之」、正面下部には「先達 森谷浦次郎(他2名の名) 石川キヨ(他30名の名)」が刻まれている。高さ148cm。

13.秩父参拝碑
   B5

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 上記8の写真の左から5番目に建っている。正面中央に「秩父三十四番供養塔」、正面の右に「大正六年(1917年)」、正面の左に「五月吉日」、台石正面に「先達 山﨑卯之松 石川キヨ(他9名の名)」が刻まれている。高さ83cm。

14.秩父参拝碑
   B6

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 上記8の写真の左から6番目に建っている。正面中央に「秩父三十四番供養塔」と読めるが、他は劣化で判読が困難なので平成4年佐倉市石造文化財調査カードにより銘文を以下のとおり紹介する。正面の右に「明治四十一年(1908年)」、正面の左に「申四月十一日」、台石正面に「井野區先達 山﨑卯之松(他1名の名)  奥津くら(他15名の名)」が刻まれている。高さ111cm。

15.子安塔
   B7

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 上記8の写真の左から7番目に建っている。幼児を抱いた子安観音が刻まれ、正面上部に左から「十九夜」、台石正面上段には左から横書きで「昭和四十六年(1921年)十一月」、台石正面中断には左から横書きで「講中」、台石下段には左から横書きで「参拝者一同」と文字が刻まれている。高さ87cm。

16.子安塔
   B8

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 上記8の写真の左から8番目に建っている。正面中央に子安観音像、正面の左側に「十九夜」の文字、裏面は剥離が激しいが平成4年佐倉市石造文化財調査カードによれば「昭和二十七年(1952年)十二月建之」の文字が刻まれている。台石正面には「世話人村山治雄(他21名の名)」が刻まれている。高さ89cm。

17.子安塔
   B9

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 上記8の写真の左から9番目に建っている。正面中央に子安観音像、左側面に「昭和十一年(1936年)四月八日建之」、右側面に「世ハ人 村山太一郎(他3名の名)」、台石正面に「村山よし(他42名の名)」が刻まれている。高さ93cm。

18.子安塔
   B10

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 記8の写真の左から10番目に建っている。正面中央に子安観音像、正面の上部に左から横書きで「十九夜」、台石正面に左から横書きで「講中」、台石左側面に「山本しげ(他9名の名)」、台石右側面に「守屋育蔵(他10名の名)」が刻まれている。建立年の記載はない。高さ82cm。

19.子安塔
   B11

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 上記8の写真の左から11番目に建っている。正面中央に子安観音像、左側面に「大正八年(1919年)三月吉日」、右側面に「世話人 森谷善一郎(他3名の名)」、台石正面に「石川サタ(他18名の名)」が刻まれている。高さ80cm。

20.念佛塔
   B12

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 上記8の写真の左から12番目に建っている。正面中央に聖観音像が刻まれ、正面下部に右から横書きで「女人講中」、左側面には「明治三十六年(1903年)三月吉日」、右側面には「世話人 山嵜作次郎(他3名の名)」、台石正面には右から横書きで「女人講中」、台石右側面には「世ハ人 奥津忠治郎(他3名の名)」が刻まれている。高さ82cm。

21.子安塔
   B13

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 上記8の写真の左から13番目に建っている。正面中央に子安観音像が刻まれ、正面の右上に「十九夜」、左側面に「明治廿二季(1889年)五月吉日建」、台石正面の右に縦書きで「女人講」、台石正面の左に「同行 十人」と刻まれている。高さ79cm。

22.十九夜塔
   B14

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 上記8の写真の左から14番目に建っている。正面中央に如意輪観音像が刻まれ、正面上部に縦書きで「十九夜」、正面の左に「〇政三辰(文政三辰(1820年)と思われる)二月吉日」、正面下部に右から横書きで「女人講中」と文字が刻まれている。高さ86cm。

23.十九夜塔
   B15

   photo1
 

 上記8の写真の左から15番目に建っている。正面中央に如意輪観音像が刻まれ、正面の右に「文政十一年子(1828年)」、正面の左に「二月吉日」、右側面下部に「井野村」と文字が刻まれている。高さ75cm。

24.十九夜塔
   B16

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 上記8の写真の左から16番目に建っている。正面中央に如意輪観音像が刻まれ、正面の右に「文化九壬申(1812年)二月吉日」と文字が刻まれている。高さ76cm。

25.十九夜塔
   B17

   photo1
 

 上記8の写真の左から17番目に建っている。正面中央に如意輪観音像が刻まれ、正面の右に「奉造立十九夜観世音菩薩」、正面の左に「天明元年(1781年)十一月吉日」、台石正面に右から横書きで「女人講中」と文字が刻まれている。高さ88cm。

26.十九夜塔と
   子安塔
   B18 B19

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 上記8の写真のように、左から18番目(上記写真左)と19番目(上記写真右)に、これらの石塔が隣接して建っている。
 (1)写真左は、十九夜塔である。正面中央上部に縦書きで「十九夜」、その下にに如意輪観音像が刻まれ、正面の左には「享和第二戌年(1802年)二月吉日」、左側面に「講中當村善男女〇余人」、右側面に「願主 於喜和(他2名の名)」が刻まれている。高さ84cm。
 (2)写真右は、子安塔である。正面中央に子安観音像が刻まれ、正面の右に「天保七丙申年(1836年)」、正面の左に「二月吉日」、台石正面は平成4年佐倉市石造文化財調査カードによると「願主 伝治(他6名の名)」が刻まれている。高さ92cm。

27.二十六夜塔
   B20

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 上記8の写真の左から20番目に建っている。経年劣化により像容の確定は困難であるが、六手であり手に剣や弓のような武具が見えること、千手院がかつて真言密教本山派の醍醐三宝院の末寺であったこと、建立日が26日であることや当時印旛地方に愛染明王を主尊とする「二十六夜講」が盛んであったことから、「愛染明王」が刻まれてているものと思われる。左側面に「文化十五寅(1818年)正月廿六日」、右側面に「井野村講中」と文字が刻まれている。高さ81cm。

28.二十三夜塔
   B21

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 上記8の写真の左から21番目に建っている。正面中央に勢至菩薩像が刻まれ、正面の右に「奉造立二十三夜講」、正面左に刻まれている文字は苔で覆われているが平成4年佐倉市石造文化財調査カードによると「元禄十二己卯(1699年)二月二十三日」と文字が刻まれている。高さ77cm。

29.二十三夜塔
   B22

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 上記8の写真の左から22番目に建っている。正面中央に勢至菩薩像が刻まれ、正面の右に「二十三夜尊當村惣若者中」、正面の左に「享和二戌(1802年)十一月」と文字が刻まれている。高さ68cm。

30.二十三夜塔
   B23

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 上記8の写真の左から23番目に建っている。正面中央に「二十三夜」、左側面に「文政十三寅年(1830年)二月吉日」、台石正面に「當村 若者講中」と文字が刻まれている。高さ93cm。

31.Cブロック
   配置図

   photo1
 

 Cブロック内の石造物の配置は、上記31の図のとおりである。 図中の1は本堂、2は大師堂である。以下にC1の念佛塔から順に石造物を紹介したい。       

32.念佛塔
   C1

   photo1
 

 正面に観音菩薩像が刻まれ、左側面に「寛政十一未(1799年)五月吉日」、台石正面には「講中拾三人 願主 庄蔵  勘右エ門(他12名の名)」、台石左側面には「葉な(他8名の名)」、台石右側面には「むつ(他7名の名)」、そして台石裏面には「平十郎(他8名の名)」が刻まれている。高さ83cm。
 この念佛塔は、以前「佐倉市井野893」の桜の大木の下に立っていたが、宅地開発により当地に移された。子供の成長を守る仏さまと言われ、近くの人は正月の七草と七月一日の富士山の山開きの日には、子供を連れてお参りをする習慣となっていたという。

33.天神様
   C2

   photo1   photo1
 

 木の祠(上記の左の写真)の中に、上記右の写真の天神(菅原道真公)像が安置されている。年代不詳。像の高さは34cm。
 お寺の方の話によると、神仏混淆の時代から天神社がこの地にあり、村の子女が毎年正月2日にお参りに来たそうだ。今は子供の数も少なくなりこの風習は途絶えたそうだ。

34.三面馬頭観音
   C3

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 ここは、平成28年に作られたペットのお墓である。お墓を守るかのようにこの三面の馬頭観音が建っている。高さ120cm。

35.石造物群

   photo1
 

 C3の三面馬頭観音の近くにこの6基の石造物が建っている。ご覧のように、前後に近接しているため、以下前後の2基ずつ紹介することとしたい。

36.馬頭観音
   C4  C7

   photo1
 

 上記35の写真の右端の2基である。
(1)手前(C4)は、正面に「馬頭観世音」、左側面に「文久三亥年(1863年)」と文字が刻まれている。高さ51cm。
(2)後方(C7)は、正面に一面六手の馬頭観音像が刻まれ、正面の右に「明和元甲申(1764年)十一月吉日」、正面の左下に「井野村中」と文字が刻まれている。高さ84cm。

37.馬頭観音
   C5 C8

   photo1
 

 上記35の写真の真ん中の2基である。
(1)手前(C5)は、正面に「馬頭観世音」、右側面に「天保九戌(1838年)十一月 井野村」と文字が刻まれている。高さ43cm。
(2)後方(C8)は、正面に「馬頭観世音菩薩」、左側面に「昭和十五年(1940年)九月建之」と文字が刻まれている。高さ70cm。

38.馬頭観音と石祠
   C6 C9

   photo1
 

 上記35の写真の左端の2基である。
(1)手前(C6)は、正面に「馬頭観世音」、佐側面に「明治〇年二」の文字が読み取れる。高さ30cm。
(2)後方(C9)は、笠付の石祠であるが、右側面に「寛保三癸亥年(1743年) 森谷庄兵衛」と文字が刻まれている。高さ125cm。

39.歴代住職の墓所

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 本堂の左側の通路を奥へ進んで行くと、樹々に守られるように、千手院の歴代住職の墓所に行き着く。ここには前記の明治時代の住職で教育者である渡辺阿刀の功績を記した「感恩碑」を始め、五輪塔・宝篋印塔・卵塔・供養塔など25基の石塔が立ち並んでいる。以下にこれらのうちC10及びC11の2基の供養塔を紹介したい。

40.供養塔
   C10

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 上記39の墓所に入って左の方にこの地蔵尊は建っている。左手に宝珠、右手に経巻を持った堅固意菩薩(六道のうちの天道に現す地蔵の姿)である。この石像の背中には「中興舜栄弟子當寺三十四世舜貞闍梨像」と文字が刻まれている。台石は六角形をしており、台石正面中央に「堅固意菩薩」、台石正面の右に「享保十五庚戌(1730年)、台石正面の左に「二月吉日」、以下台石を右回りに見ていくと台石の2番目の面には「地持菩薩 錫杖造立法印舜栄」、3番目の面には「寶手菩薩」、4番目の面には「地蔵菩薩」、5番目面には「寶處菩薩」、6番目の面には「石壹造立法印収」と文字が刻まれている。高さ125cm。

41.供養塔
   C11

   photo1
 

 上記39の墓所の入口の正面奥の方に立っている木の根元にこの不動明王像が建っている。正面の右下に「法印日慶宝昌」、正面左下に「延宝七己未(1679年)十月七日」と文字が刻まれている。高さ70cm。

42.Dブロック
   配置図

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 Dブロックには上記のとおり6基の石造物がある。建物は、1が本堂、2が大師堂、3が無縁仏を供養する大日堂である。以下にD1から順に紹介したい。

43.弘法大師供養塔
   D1

   photo1
 

 この供養塔は大師堂に向かって右横に建っている。正面中央に大きな草書体で「南無大師遍照金剛」と刻まれている。裏面や台石にも文字があるが劣化で読み取れない。平成4年佐倉市石造文化財調査カードによれば、裏面上段に「志津阿蘇臼井大和田中萱町村連合会 春秋彼岸大師巡行三十年記念 昭和二年(1927年)三月建之」、裏面下段には「寄進者名あるも判読できず」とあり、台石正面には「特別寄附者 上高野 金五円 蛭間佐吉(他160余名の名)」が刻まれている。前記調査カードによれば、高さは276cmである。
 「南無大師遍照金剛」とは、真言宗で唱える一番短い『お経』である。仏さまの慈悲の光は、すべてのもに及ぶ。そして、すべてのものに幸せを及ぼそうという智慧の働きはダイヤモンド(金剛石)のように堅固で輝きを失わない。これが「遍照金剛」の由来である。弘法大師は中国で修行し師の惠果から真言密教の法を受け継いだがその際にこの「遍照金剛」を名前のひとつとして贈られた。

44.本堂改築後援會
   記念碑
   D2

   photo1
 

 この記念碑は大師堂に向かって左側にある。正面上部に右から横書きで2行にわたって「本堂改築後援會紀念」と題字が刻まれている。正面右端に「寄附者御芳名 井野町一同」、次行に「大正十二年(1923年)度」と文字が刻まれ、以後90余名の個人や団体の名と寄付金金額が記載されている。女性の名も多く刻まれている碑である。高さ185cm。

45.刻経塔
   D3

   photo1
 

 この石塔は大日堂に向かって右側にある。文字が大部薄いので、平成4年佐倉市石造文化財調査カードの記載によって紹介したい。正面に「宝筐印陀羅尼卒塔婆」、左側面に「一切如来心秘密全身舎利」、右側面に「一切如来心秘密全身舎利」、裏面に「宝筐印陀羅尼卒塔婆」、台石正面に「宝永五戊子稔(1708年)」、台石左側面に「造立施主念佛講中」、台石右側面に「稲野山千手院」、台石裏面に「十月十有五日」と文字が刻まれている。高さ144cm。
 この石塔は、唐の沙門不空三蔵の訳による「一切如来心秘密全身舎利宝筐印陀羅尼経」のことばを刻んだものである。同経の説くところによれば「もし人この経を書写して塔中に置かば、この塔は一切如来の金剛蔵の卒塔婆とならん」、そして「この塔に一香一華を供え礼拝供養すれば八十億劫生死重罪が一時に消滅し、生きている間は災害から免れ、死後は必ず極楽に生まれ変わる・・・」といった功徳が説かれている。

46.刻経塔
   D4

   photo1
 

 この石塔は、前記45の石塔の真向かいに建っている。塔身の部分に「一切如来心秘密全身舎利宝筐印陀羅尼経」の本尊である金剛界四仏の種字が刻まれている。基礎の正面には「享保十六年亥天(1731年) 法印快聴大和尚位 六月初八日開眼」、基礎の右側面には「稲野山三十二世快昌建焉」と文字が刻まれている。高さ195cm。

47.慰霊碑
   D5

   photo1
 

 この慰霊碑は、大日堂の右前に建っている。正面上部に右から横書きで「表忠碑」と文字が刻まれ、その下には昭和13年(1938年)から昭和21年(1946年)の間に戦争に徴兵され亡くなった井野の方々13名の戒名・軍隊の階級と俗名・死亡した年月日と場所、施主の名前が記されている。終戦(1945年)の後にロシアで亡くなった人や激戦の地の硫黄島で戦死した方などが記されている。正面左下に「昭和二十八年(1953年)十一月建之」と文字が刻まれている。高さは3m以上あると思われる。

48.六地蔵
   D6

   photo1
 

 この六地蔵は、大日堂に向かって左側にある。六地蔵の裏の方にはお寺の広い墓苑がある。
 六地蔵の左右に高さ90cmほどの石柱があり、左の石柱の正面には「六地蔵 寄進 村山秀和」、その裏面には「平成二十八年三月吉日」、右の石柱の正面には「六地蔵 寄進 石川実」、その裏面には「平成二十八年三月吉日」と文字が彫られている。高さ110cmの基壇の上には高さ90cmの六基の地蔵尊が並んでおり、それらの台石正面には向かって左の石像から各々、「堅固意菩薩」、「持地菩薩」、「法印菩薩」、「宝処菩薩」、「宝手菩薩」、「地蔵菩薩」の文字が刻まれている。

49.Eブロック
   左区域

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 前記2の境内配置図にある通り、Eブロックは境内入口が面する道路に近い所から、前記48の六地蔵の後方にある墓苑の近くまでの細長い区域である。Eブロックを2つに分け、前記48の六地蔵の方から見て左の区域(境内入口の前面道路に近い区域)を「Eブロック左区域」とし、前記六地蔵から見て右の区域(墓苑に近い区域)を「Eブロック右区域」として、石造物を紹介したい。
 Eブロック左区域には、上記写真の通り5基の石造物が建っている。

50.二十三夜塔
   E1

   photo1
 

 この石塔は上記49の写真の左端に建っている。正面中央に勢至菩薩像が彫られ、正面の右側に「奉造立廿三夜講」、正面の左側に「享保十四己酉(1729年)十一月吉日 井野村 若者中」と文字が刻まれている。高さ74cm。

51.十九夜塔
   E2

   photo1
 

 この石塔は上記49の写真の左から2番目に建っている。正面中央に如意輪観音像が彫られ、正面の右側に「奉造立十九夜講中井野村」、正面の左側に「元文元丙辰(1736年)十月吉日」と文字が刻まれている。高さ69cm。

52.念佛塔
   E3

   photo1
 

 この石塔は上記49の写真の左から3番目に建っている。右手に錫杖左手に宝珠を持つ地蔵菩薩像が建っている。その台石正面には右から「井野村 念佛講中 梵字「カ」(地蔵菩薩の種字) 奉新造立地蔵大菩薩 西入法印 善女人」、台石の右側面には「享保十乙巳(1725年)十月廿四日」、台石の左側面には「道仙信士元禄三庚午天(1690年)八月廿日 妙泉信女宝永戌天(1706年)正月四日」と文字が刻まれている。高さ約2m。   

53.読誦塔
   E4

   photo1
 

 この石塔は上記49の写真の左から4番目に建っている。正面に紋様があるが、文字は薄くなりかなり読みづらい。平成4年佐倉市石造文化財調査カードの記載によると、右側面に「稲埜山四拾三世 干時寛政八丙辰星(1796年)四月五日開眼導師 法印海慧」、左側面に「奉昌満光明真言一百万遍 成就講中所来如意處」と文字が刻まれている。高さ123cm。

54.供養塔
   E5

   photo1
 

 この石塔は上記49の写真の左から5番目に建っている。地蔵菩薩像が浮彫にされている上部の石の左側面に「英照院清光智雄居士 昭和三十八年(1963年)八月一日 石川治雄 服部冨美榮建之」と文字が刻まれている。高さは110cm。

55.Eブロック
   右区域

   photo1
 

 この右区域には、上記写真のとおり6基の石造物が建っている。但し、左から4番目の石造物は正面に「寶智本空信士位」と文字が刻まれている墓石である。以下にはこの墓石を除いた5基の石造物につき紹介したい。

56.供養塔
   E6

   photo1
 

 上記55の写真の左端に建っている。文字が見えるようにと写真は斜め左から撮ったものを使用している。正面に「暁覺法子」、左側面に「文政三辰(1820年)正月」、右側面に「臼井田町 相川氏産 岩尾事 壽 六才  〇快養第」の文字が刻まれている。高さ46cm。

57.供養塔
   E7

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 上記55の写真の左から2番目に建っている。正面に地蔵尊が彫られ、正面の左側に「文化七庚午(1810年)正月五日」、正面の右側にも文字が刻まれており「徳」らしき文字と「律」らしき文字が見えるが摩滅が激しく判読は困難である。高さ98cm。

58.十三仏供養塔
   E8

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 上記55の写真の左から3番目に建っている。正面中央に「盡十方六九四生同入阿字」、その右に「宝永元甲申天(1704年)」、正面左に「五月吉日  井野村 真桑一空師」の文字が刻まれ、それらの文字の上と左右に「十三仏」を示す種字(梵字)が刻まれている。高さ80cm。
 「十三仏」とは、冥土へ旅立った私たちを浄土へ導く審理をする裁判官であり、時には私たちを弁護する役目をしてくれる十三の仏様(明王、菩薩、如来)である。冥土ではまず、初七日から四十九日までの七日ごと、そして百か日、一周忌、三回忌まで冥土の裁判官である十王の裁きを受ける。  この十王と、その後の審理(七回忌、十三回忌、三十三回忌)を司る三王を加えた十三王の本地(ほんじ=根本真実身)が十三仏である。初七日(7日目=命日より6日後)を司る不動明王(梵字:カーン)、二七日(14日目)の釈迦如来(梵字:バク)、三七日(21日目)の文殊菩薩(梵字:マン)、四七日(28日目)の普賢菩薩(梵字:アン)、五七(35日目)の地蔵菩薩(梵字:カ)、六七日(42日目)の弥勒菩薩(梵字:ユ)、七七日(49日目)の薬師如来(梵字:バイ)、百か日(百日目)の観世音菩薩(梵字:サ)、一周忌(2年目)の勢至菩薩(梵字:サク)、三回忌(3年目)の阿弥陀如来(梵字:キリーク)、七回忌(7年目)の阿閦如来(梵字:ウーン)、十三回忌(13年目)の大日如来(梵字:バン)、三十三回忌(33年目)の虚空蔵菩薩(梵字:タラーク)の13の仏様である。因みにあの「閻魔様」の本地は地蔵菩薩である。
 この供養塔に刻まれている梵字は、正面の右列の下からカーン(不動明王)、マン(文殊菩薩)、カ(地蔵菩薩)、バイ(薬師如来)、サク(勢至菩薩)、正面の左列の下からはバク(釈迦如来)、アン(普賢菩薩)、ユ(弥勒菩薩)、サ(観世音菩薩)、キリーク(阿弥陀如来)、正面の頂点にタラーク(虚空蔵菩薩)その左右にバン(大日如来)とウーン(阿閦如来)である。  

59.廻國塔
   E9

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 上記55の写真の左から5番目に建っている。正面上段に「山陰道八ヶ国」と「山陽道八ヶ国」及び「西海道九ヶ国」、正面中段に「北陸道七ヶ国」と「五畿内五ヶ国」及び「南海道六ヶ国」、正面下段に「東山道八ヶ国」と「東海道十五ケ国」が刻まれ、それぞれの場所にそれらの国名が刻まれ、廻國行者の回る全国66か国の名が記されている。裏面には「宝永元年(1704年) 真桑一空師 下総國葛飾郡井野村 今月吉日 角来村 石屋甚兵衛」の文字が刻まれている。高さ113cm。

60.供養塔
   E10

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 上記55の写真の左から6番目に建っている。高さ162cmの石塔である。地蔵菩薩立像の台石正面に右から横書きで「奉造立地蔵菩薩」と文字が刻まれている。台石左側面にも文字があるようだが劣化が激しく判読は不能である。年代不詳。

佐倉石碑クラブ

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