志津村記念碑

(住所:佐倉市上座1156)

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1.志津小学校正門

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 佐倉市立志津小学校の正門を入るとすぐ右手に、自然石の立派な記念碑が2基建っている。「志津村記念碑」と「志津村役場改築記念碑」である。 前者には明治22年(1889年)市町村制発足により志津村が誕生した由来が記され、後者にはその後役場を改築するに至った経緯が記されている。
 両碑はもともと上座萱橋にあった旧役場の庭に建てられていた。昭和29年に志津村は佐倉市に合併され旧役場は引き続き支所として使用された。 両碑は、旧役場と同じ敷地にあった志津小学校の昭和41年9月の改築移転に伴い同小学校の裏門(元は正門)の内側に運ばれ、その後放置されていた。 昭和60年頃、当時の志津風土記を作る会が発見して請願、佐倉市によって現在の場所に保存された。

2.志津村記念碑

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 正面の上部に「志津村記念碑」と篆刻されている。その下右に「千葉県印旛下埴生相馬郡長 従七位 武藤宗彬 篆額」と記し、その左からこの碑を建てることになった由来、志津村が成立した経緯などが漢文で記されている。概要は次のようなものである。
 当時志津村第三代村長の和田啓蔵が諸氏とともに志津村創立記念碑の建碑を発案、第一代村長であった奥津忠次郎に撰文を依頼した。志津村が旧制八町村及び一部落団体を以て成立した (すなわち先崎村・青菅村・小竹村・上座村・井野村・井野町・上志津村・下志津村・又、下志津村の内六方新田を分割し合せて千代田村・内黒田村今宿を分割し合せて本村に合併された)。 総戸数が546戸で人口が2932人だった。志津という村名は、陸軍大砲射学校があった地が志津野という著名な地であることから因った。明治22年2月当局に申請し允可を得て村は成立した。 村役場をこの地に設置した。村の経営資金は村民の醵集によるものだった。発足当時の村の吏員の人数や尋常小学校は2校(上志津に1校、井野に1校)。 風俗は温和で今後も志津村が協和親睦を図り安全な地にするよう願う。等々が記されている。
 碑の終わりに「明治二十六年(1893年)一月二十日 前志津村長 奥津忠次郎 謹撰 吉野香雪 敬書 鷺沼石工 広瀬音五郎 拝刻」 と記されている。裏面には多くの建設功労者の名が刻まれている。高さ182cm。

3.志津村役場改築記念碑

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 正面上部に「改築記念」と文字が刻まれている。碑文はこれも漢文で記されている。 碑の正面の右上に「千葉県印旛郡長 正六位勲六等 山中竹樹 題額」と記され次に 「明治23年に建てた旧役場の庁舎は萱葺で40坪の平屋で、社会機構が進み行政事務も年々繁多を極めるようになり庁舎は狭くなり改築を求める声が大きくなった。 大正5年に村は村議会に五か年で年々250円ずつ蓄積して改築基金を造る案を諮り議決を得た。大正6年になり、犢橋・千代田・旭・志津の四カ町村で<丁巳組合>を設立して 『志津野原の陸軍射撃場の廃弾管理権』の許可を申請して年配当金による潤益を組合町村で獲得することを計画し、許可を得てその配当金の若干円が組合の潤益になった。 村長の中村市郎兵衛が前の計画を捨てこの潤益を庁舎改築に流用することを村議会に諮り村議会が満場一致で可決、上座の萱橋の民有地買収などを経て大正七年に建築に着手、大正八年十月に竣工成就し、 同年11月17日に落成式を挙行した。記念碑撰文を自分(=在原縫造)が引き受けた。」など記されている。
 碑文最後に「惟時大正十年歳次辛酉(1921年)桂月(陰暦8月)  篁陰 在原縫造 謹撰 随所 宇津木行蔵 書」と記されている。裏面には多数の建設功労者の名が刻まれている。高さ140cm。

佐倉石碑クラブ

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