小竹西福寺

(住所:佐倉市小竹977)

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1.西福寺

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 西福寺は山万ユーカリが丘線女子大駅から直線距離で東に700mのところにある。女子大駅から和洋女子大学と小竹小学校の間を行き突き当りを右折する。380mほど行くと小竹三叉路があるので左折する。230mほど行ったら右に行き40mほど行ったら左折する。160mほど行くと左に西福寺がある。
 西福寺は真言宗豊山派で長谷山と号し、阿弥陀如来を本尊とする。境内にある「浄光礎」によると、明治6年(1875年)の火災でこの寺の旧記書類が全て焼失したため、開基世代も詳らかでない。明治8年に本堂を再建したが、昭和16年の集中豪雨により裏山で地滑りが発生し本堂は崩壊した。大東亜戦争の勃発も重なり、現在の新本堂は昭和54年になり、ようやく完成したと記されている。

2.境内配置図

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 境内全体の配置図である。以下にA、B、C、D、Eの詳細図を示し、その詳細図に従って石碑を紹介する。

3.配置図A
  詳細図

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 配置図Aの詳細図である。以下にA1,A2,・・・の順で石碑を紹介する。 

4.不明碑
  配置A1

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 この石碑は種類・建立年月とも不明。花崗岩でできており、高さは99㎝。

5.秩父三十四番
  供養塔
  配置A2

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 この石碑は光背型の秩父三十四番供養塔。像容は聖観音で、左側面に「弘化二年(1845年)二月吉日」と文字が刻まれている。高さは73㎝。

6.十九夜供養塔
  配置A3

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 この石碑は光背型の十九夜供養塔。像容は如意輪観音で、右側面には「寛政元己酉年(1789年)3月吉日」、左側面には「奉造立十九夜女人講中」と文字が刻まれている。高さは80㎝。       

7.十九夜供養塔
  配置A4

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 この石碑は光背型の十九夜供養塔。像容は如意輪観音で、左側面に「文久三亥年(1863年)三月吉日」と文字が刻まれている。高さは72㎝。

8.十九夜供養塔
  配置A5

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 この石碑は櫛型の十九夜供養塔。正面に「十九夜供養塔」、右側面に「明治三十二年(1899年)四月三日」、台石正面に「郷中内 女人講中」、台石右側面に「世話人 深山庄〇(他6名)」、台石左側面に「高橋栄蔵(他6名)」と文字が刻まれている。高さは93㎝。

9.十九夜供養塔
  配置A6

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 この石碑は櫛型の十九夜供養塔。正面中央に「十九夜供養塔」、その左に「昭和四十四年(1969年)酉二月建立」、台石に「世話人秋山正行(他6名) 秋山くに(他32名)」と文字が刻まれている。高さは106㎝。

10.十九夜供養塔
   配置A7

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 この石碑は櫛型の十九夜供養塔。正面中央に「十九夜供養塔」その左に「大正十(1921年)辛酉年三月十九日」、台石に「世話人 深山徳太郎(他6名) 郷の作講員 小久保あき(他31名)」と文字が刻まれている。高さは102㎝。

11.十九夜供養塔
   配置A8

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 この石碑は角柱型の十九夜供養塔。正面中央に「十九夜供養塔」、右側面に「昭和癸酉八年三月十九日建立」、台石正面に「郷ノ作女人講中」、台石右側面に「世話人高橋兼松(他6名) 講員氏名堀内とよ(他29名)」と文字が刻まれている。高さは74㎝。

12.十九夜供養塔
   配置A9

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 この石碑は駒型の十九夜供養塔。正面に「十九夜供養塔」、左側面に「明治四十二年(1909年)三月吉日」、台石に「女人講」と文字が刻まれている。高さは79㎝。

13.十九夜供養塔
   配置A10

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 この石碑は櫛型の十九夜供養塔。正面中央に「十九夜供養塔」、その左に「昭和二十年四月建立」、台石に「世話人 小竹郷(他7名) 講員深山いち(他27名)」と文字が刻まれている。高さは128㎝。

14.十九夜供養塔
   配置A11

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 この石碑は光背型の十九夜供養塔。正面上部に「十九夜」、右側面に「明治十八年(1885年)三月十九日」と文字が刻まれている。高さは59㎝。

15.十九夜供養塔
   配置A12

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 この石碑は櫛型の十九夜供養塔。正面中央に「十九夜供養塔」、その左に「昭和丗二年酉二月建立」と文字が刻まれている。高さは132㎝。

16.十九夜供養塔
   配置A13

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 この石碑は櫛型の十九夜供養塔。正面中央上部に「十九夜供養塔」、その左に「昭和五十六年酉二月吉日」、正面下部に「小竹十九夜講中 世話人秋山清(他6名) 講中秋元きぬ(他34名)」の文字が刻まれている。高さは156㎝。

17.秩父三十四番
   供養塔
   配置A14

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 この石碑は櫛型の巡拝塔(秩父)。正面中央に「秩父三十四番供養塔」、その左に「昭和六十三年四月吉日建立」、その右に「昭和六十一年三月二十五日参拝」、正面下部に「五十音順 秋山恵美子(他6名)、世話人高橋静枝(他4名)、世話人山崎エツ子(他5名)」と文字が刻まれている。高さは165㎝。

18.十九夜供養塔
   配置A15

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 この石碑は長方形型の十九夜供養塔。正面中央上部に「十九夜供養塔」、その左に「平成五年三月吉日」、正面下部に「世話人 秋元晧(他6名) 講中 秋元はるみ(他25名)」の文字が刻まれている。高さは156㎝。

19.新四国八十八
   箇所供養塔
   配置A16

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 この石碑は駒型の巡拝塔。正面に「新四国八十八箇所  佐礼山写五十八番」、右側面に「小竹村 西福寺」、左側面に「文政十三(1830年)庚寅年二月」と文字が刻まれている。高さは56㎝。
 巡拝した新四国八十八箇所は関東地域内と思われる。

20.西国坂東秩父
   供養塔
   配置A17

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 この石碑は駒形の巡拝供養塔(西国・坂東・秩父百番観世音供養塔)。正面中央上部に「西国 坂東 秩父」、正面中央に「百番観世音供養塔」、その右に「明治元年(1868年)」、その左に「辰十一月」、中央下部に「秋元金兵衛(他2名)」の文字が刻まれている。高さは80㎝。
 この石碑に向かって右側に壊れた石碑が立て掛けられている。

21.十九夜供養塔
   配置A18

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 この石碑は光背型の十九夜供養塔。正面中央に如意輪観音像が彫られており、その右に「女人講中」、その左に「享和三亥年(1803年)二月吉日」の文字が刻まれている。また、平成4年佐倉市石造物調査によると台石に「願主 弥五右衛門(他4名) 六十人女中」の文字が刻まれている。高さは81㎝。

22.十九夜供養塔
   配置A19

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 この石碑は光背型の十九夜供養塔。正面に如意輪観世音像が彫られている。高さは71㎝。

23.秩父三十四番
   供養塔
   配置A20

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 この石碑は櫛形の巡拝供養塔(秩父)。正面中央に「秩父三十四番霊場巡拝供養塔」、その右に「巡拝記念 昭和三十六年四月十二日」、その左に「昭和三十六年九月吉日建立」の文字が刻まれている。また平成4年佐倉市石造物調査によると台石に「秋元角蔵(他10名)の文字が刻まれている。高さは126㎝。

24.十九夜供養塔
   配置A21

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 この石碑は光背型の十九夜供養塔。正面中央に如意輪観世音像が彫られており、その右に「村中女人講中」、その左に「文化十三(1816年)子二月吉日」。台石正面に「女人講中」、台石左側面に「願主 山崎嘉五郎(他6名)」の文字が刻まれている。高さは86㎝。 

25.墓碑
   配置A22

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 この石碑は墓碑と思われる。高さは37㎝。

26.秩父三十四番
   供養塔
   配置A23

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 この石碑は櫛形の巡拝供養塔(秩父)。正面中央に「秩父三十四観音巡拝供養塔」、その右に「昭和五十三年三月二十五日巡拝」、その左に「昭和五十四年一月吉日建立」、中央下部に「先達 秋元栄一 世話人 秋元つる(他16名)」の文字が刻まれている。高さは141㎝。

27.秩父三十四番
   供養塔
   配置A24

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 この石碑は光背型の巡拝塔(秩父)。正面中央に聖観音が彫られており、その右に「秩父三十四番札所」、その左に「享和二戌年(1802年)二月吉日」の文字が刻まれている。右側面には「小竹村講中善男女三拾人」と刻まれている。高さは66㎝。

28.秩父長野佐渡
   供養塔
   配置A25

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 この石碑は櫛形の巡拝塔(秩父・善光寺)。正面中央に「秩父三十四箇所霊場巡拝」、その左に「長野善光寺参拝佐渡探勝供養塔」、その右に「昭和二十九年四月吉日」、中央下部に「鈴木重雄(他)」の文字が刻まれている。高さは168㎝。

29.西国坂東秩父
   供養塔
   配置A26

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 この石碑は櫛形の巡拝塔(西国・坂東・秩父)。正面中央に「西国坂東秩父 百所観世音菩薩 納経供養塔」、その右に「為報恩謝徳 自昭和十年七月至昭和十二年七月 随時遍禮」、その左に「昭和十二年九月二十五日七十五叟 秋元五平次」の文字が刻まれている。高さは161㎝。 

30.秩父坂東供養塔
   配置A27

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 この石碑は角柱型の巡拝塔(秩父坂東)。正面中央に「秩父三十四番 坂東霊場 観世音菩薩」、右側面上に「奉順禮同行十八名」、右側面下に「世話人 故鈴木喜造 (他3名)」、左側面に「大正八年(1919年)九月十八日建立」の文字が刻まれている。高さは108㎝。       

31.不明碑
   配置A28

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 この石碑は他の石碑に挟まれた状態で立て掛けている。櫛形の石碑であるが、種類・建立年月日は不明。高さは48㎝。

32.秩父三十四番
   供養塔
   配置A29

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 この石碑は角柱型の巡拝塔(秩父)。正面中央に「秩父三十四番供養塔」、左側面に「昭和十六年三月十三日建立」、台石に「鈴木定雄(他)」の文字が刻まれている。高さは94㎝。

33.秩父三十四番
   供養塔
   配置A30

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 この石碑は櫛形の巡拝塔(秩父)。正面中央に「秩父三十四番供養塔」、その右に「昭和四十一年三月巡拝」、その左に「昭和四十一年九月吉日建立」、中央下部に「世話人 秋元栄一 (他22名)」の文字が刻まれている。高さは180㎝。

34.秩父三十四番
   供養塔
   配置A31

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 この石碑は櫛形の巡拝塔(秩父)。正面中央に「秩父三十四番 観音供養塔」、その右に「平成五年三月二十三日参拝」、左に「平成六年三月吉日建立」、中央下部に「秋元啓子 (他17名)」の文字が刻まれている。高さは168㎝。

35.十九夜供養塔
   配置A32

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 この石碑は櫛形の十九夜供養塔。正面中央に「十九夜供養塔」、その左に「平成十七年酉二月吉日」、中央下部に「世話人 深山浩子 (他4名) 講中 鈴木智子 (他9名)」の文字が刻まれている。高さは150㎝。

36.配置図B
   詳細図

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 配置図Bの詳細図である。以下にB1,B2の順で石碑を紹介する。

37.山門
   配置B1

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 向かって左側の石碑(山門)には、正面に「真言宗豊山派 西福寺」、裏面に「平成二十年三月吉日 住職箕輪宥弘代建立」と刻まれている。向かって右側の石碑(山門)には何も刻まれていない。高さは共に230㎝。

38.層塔
   配置B2

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左側                右側 

 

 一対の層塔で十三重塔。左右に同じものが配されている。山門側基礎部に「奉納」、本堂側基礎部上段に「昭和五十八年七月吉日」、下段左側に「直八」、下段右側に「高橋瑛勝」と刻まれている。
 三陸沖大地震の際に左右の層塔とも崩れ落ちたが、壊れる事なく積みなおしたとの事。(ご住職のお話)

39.配置図C
   詳細図

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 配置図Cの詳細図である。以下にC1,C2,・・・の順で石碑を紹介する。

40.献灯料碑
   配置C1

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 この石碑は献灯料碑。正面右上に「楽代献灯碑」、正面上段に「金百圓」、その下段に「西福寺檀徒 秋元五平次」、正面左下に「昭和十二年吉日」と刻まれている。高さは120㎝。
 「献灯」とは、神社や寺で灯明(神仏に供える火のこと)を奉納すること。「奉納した金銭で蠟燭を買って奉納して下さい」と言うこと。

41.浄光礎
   配置C2

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 この石碑は浄光礎の碑。当寺の住職箕輪宥弘和尚により、建立された。社歴が克明に記されている。全文は以下の通り。
「当長谷山西福寺の歴史は、明治六年(1873年)の火災でその旧記書類は焼失し開基世代も詳でない。
 明治八年篤信者の発起に依り檀信徒を督励し間口六間半奥行五間の本堂を建立し菩提寺としてこの殿堂に信心を寄せた。これにより当寺は相当の荘厳と完備を見、檀信徒の安堵する所となった。然るに昭和十六年七月二十二日未曾有の集中豪雨の来襲により裏山に地滑りを起し、旧本堂は一瞬にして崩壊した。しかし幸いにして火災の発生は免れ、本尊阿弥陀仏は何等の損傷もせず、先代宥泰和尚をはじめその家族にも負傷することなく豪雨の中に脱出することができたのである。誠に御仏のご加護と信ぜざるを得ない。五ヶ月後大東亜戦争が勃発し、本堂再建の儀は困難を窮め遅々として進展しなかった。国家非常事態宣言の中只目的完遂に努めんとする必勝の念だけが国民に課せられていたのである。止むを得ず本堂再建は中断された為崩壊した本堂の古材を使い仮本堂を建築するの余儀なきに至った。昭和二十年八月十五日終戦を迎えたるも混乱した世相の中に於いて屡々再建の議は抬頭したのであるが遂に実現するに至らず、三十余年間ご本尊はこの仮本堂に安置するの止むなきに至ったのである。今回偶々山万株式会社の開発に伴い地域内にある小竹公徳社所有地を処分した土地代金を基に、社員諸氏のご理解あるご同意と檀信徒のご賛同を得多大なる浄財のご喜捨と勤労奉仕によって新本堂の完成を見たる事は誠に有難く感謝の念に堪えない。特に直接工事を担当された当区在住職人の卓絶した技量は、この本堂の風格に見られるところである。茲に浄財をご喜捨下された方々の御芳名を記し感謝の念を深くすると共にこの偉業を永遠に伝えんとするものである。
合掌
  昭和五十四年七月吉日     住職箕輪宥弘 撰文」
高さは160cm(台石を含め190cm)。

42.三尊碑
   配置C3

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全体                一部拡大 

 

 この石碑は住職没後第二十一回忌に建てられた三尊碑。
   中央に三尊像が彫られており、その下部に十五行にわたる文章の後に「深弘院賢徳道秀清居士遺没第二十一回忌 丁丒年爲三尊供養古稀老〇深山道勇謹白 折の塵も芥も水にて泣きは花〇〇〇願以此功徳普及於一切我等興衆生皆共成佛道 昭和十二秋彼岸 三尊御聖像 爲深山家随喜 親戚鈴木某拝寫 (他1名) サキ沼〇音」と刻まれている。高さは195㎝。
 三尊とは中央の仏(中尊)と左右の脇侍(きょうじ)の菩薩(ぼさつ)の三体の総称。写真右に三尊の姿がうっすらと見える。

43.水子菩提
   和讃歌碑
   配置C4

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表                 裏 

 

 この石碑には「水子菩提和讃」が1番から6番まで刻まれている。和讃とは仏・菩薩、祖師・先人の徳、経典・教義などに対して和語を用いて褒めたたえる讃歌のこと。声明の曲種の一つ。高さは84㎝
 裏面には「水子地蔵寄付御芳名」が刻まれている。発起人 箕輪光枝 秋元綾子 (他94名)が寄付。末尾に平成五年三月吉日 住職 箕輪宥弘代とある。

44.水子地蔵尊
   配置C5

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 この石仏は水子地蔵尊。前述した水子地蔵寄付御芳名(No43)によると平成五年三月に建立されたもの。
 水子地蔵尊は、この世で長く生きられなっかた子供たちを祀り、供養するためのお地蔵様。高さは約300㎝。
 この水子地蔵尊は手に錫杖を持っていることから、賽の河原で石を積んでいる子供たちを救いに来た地蔵菩薩と思われる。親よりも早くに命を落として悲しませたとの罪の重さから、子供たちは親の幸せを願って一つひとつ石を積んでいくが、賽の河原にいる鬼は一度積んだだけでは罪を償えないと、子供たちの積んだ石を金棒で壊してしまう。なかなか成仏できずに苦しんでいる姿を見たお地蔵様は錫杖で水子たちを鬼から救ったとの事。この世で長く生きられなっかた子供を祀り、供養するためのお地蔵様である。(宮城お墓相談室より)

45.子育地蔵尊
   配置C6

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 この石仏は子育地蔵尊で、建立年月は記されていないが、ご住職の話によると「水子地蔵尊」と同時期に祀られたとの事から、平成五年三月建立と思われる。高さは112㎝。

46.手水石
   配置C7

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 この手水石は子育地蔵尊の前にあり、正面に「洗心」、左側面に「平成五年三月吉日 住職箕輪宥弘代」と刻まれている。高さは48㎝。

47.手水石
   配置C8

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 この手水石は大師堂の手前にあり、正面に「奉納」、左側面に「天保六未年(1835年)二月吉日」と刻まれている。高さは41㎝。

48.配置図D
   詳細図

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 配置図Dの詳細図である。以下にD1,D2,・・・の順で石碑を紹介する。

49.歌碑
   配置D1

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表                 裏 

 

 この石碑は歌碑。正面に草書体の銘文が書かれている。
 銘文は「如何是 対日 雪明里」である。
 裏面には「為智秀院實山総翁居士菩提 敷石十一間敷設 大正十年(1921年)四月三日 寄附者高橋千代 協賛者秋元五平次」と文字が刻まれている。高さは118㎝。

50.寄進碑
   配置D2

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表                 裏 

 

 この石碑は寄進碑。正面上段に「大正五年(1916年)九月二十日 深弘院實徳道秀清居士 大正十二年(1923年)二月四日 深照院誠善妙鏡清大姉 大正十二年八月為新盆記念 奉寄進資堂料金壹封」、下段に「施主 男 深山徳太郎 米本 土屋敬〇 鈴木忠治郎 高津 石井朝太郎 親戚 飯田鶴吉 深山世之助」と刻まれている。
 裏面には「人の運不運はつねづね三尊に崇事するとせざるとに由ると言へる深弘院の遺教を追繹し常因の道歌を詠して後生に效す  二な後世を何のへちまとぶらついた すゑぞいたしく穢土〇苦〇に  かすなしぬ南瓜野郎もつとむれ〇 うまれうまれとめでる世の中  男廉大謹誌」と刻まれている。高さは118㎝。

51.寄進碑
   配置D3

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 この石碑は自然石に刻まれた寄進碑。正面上部中央に「奉納普門品講中石坂」、正面下部に「当区発願者 秋元金三郎 上髙野賛成者 小林常治郎 (他5名) 井野区賛成者 森谷政五郎 (他6名) 下髙野区賛成者 水沢三右エ門 (他5名) 上座区賛成者 仲村彦右ェ門」と刻まれている。建立年月日は不明。高さは93㎝。

52.連歌碑
   配置D4

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全体                一部拡大 

 

 この石碑は連歌碑。
「先祖代々精霊為菩提
奉寄進舊先崎村梵利正覚院址 山林一反九畝二十四歩内為潜篁鶯歌碑供養
鶯の谷より出つるたまの音の
きよきを人の心ともかな
施主道勇深山徳太郎
玉の音に今日の心の清けれは
世を忍ふとも怨まさらまし
施主道光鈴木忠次郎
忍ふとも世にははるはる聞えけり
於く山多にの鶯のこゑ
當山主桂月箕輪宥泰
  昭和五年春     連詠建之
奥山に身を忍ふれとうくいすの
清き心はいつもはつ春
筆者浪川志田富蔵」
と刻まれている。高さは119㎝。
 上記碑文に刻まれている「潜篁鶯歌碑」とは、先崎の鷲神社境内にある大江千里(平安時代の歌人)の歌(古今和歌集)
「鶯の谷より出つる声なくは
春くることを誰か知らまし」
の歌碑のこと。

53.十九夜供養塔
   配置D5

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 この石碑は光背型の十九夜供養塔。中央に如意輪観世音が彫られており、その向かって右上に「奉新造立如意輪像一体二世安楽之〇〇」、その向かって左上に「延宝三乙卯(1675年)十月九日為講人四十二人逆修也」と刻まれている。高さは116㎝。 

54.配置図E
   詳細図

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 配置図Eの詳細図である。以下にE1の石碑を紹介する。       

55.弁財天
   配置E1

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 この石碑は弁財天(水神)。小さな池の浮島の中にある(冬季は干上がっている)。建立年月日不明。高さは65㎝。
 この地は印旛沼からの水害被害がたび重なることから、この弁財天(水神)に加護を求めたものと思われる。

佐倉石碑クラブ

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