山崎馬頭観音群

(住所:佐倉市山崎369-1南西50m )

地図拡大

1.山崎馬頭観音群
  全景  

   photo1

 

 京成佐倉駅北口からミレニアムセンターの裏の道を臼井の方へしばらく行き、隆祥寺へ入る道のひとつ手前の道を登っていくと、家並が切れた所から50mほど上がった道の右側に、木々に囲まれて、馬頭観世音などの石碑が十数個建てられている。
 この区画の真ん中の一番奥に高さ約1mの馬頭観世音の文字碑が立っており、裏面に「昭和五十一年七月吉日 山崎区」の文字が彫られている。区画の右半分には、「元禄十丁丑(1697年)」の像容碑、「寛政八酉辰(1796年)三月四日」、「天保十四卯(1843年)」、「明治二十年八月十二日」の文字碑、「天保十一(1840年)八墓四月日」と読める石碑、風化が激しく馬頭観音と思われる(地蔵尊かも知れない)像容碑、文字が全く読めない石碑が2基ある。
 また、区画の左半分には、一番奥に「路馬常盤之壙 安政二年乙卯(1855年)七月十一日」と記された石碑、その前に「文久三癸亥(1863年)九月十日」、「天保十四卯(1843年)十月〇〇」、「安政四丁巳(1857年)」、「大正二年(1913年)二月三日」、「昭和三年(1928年)二月十七日」と記された馬頭観世音の文字碑、年代不詳の「馬頭観世音」と刻まれた石碑が2基ある。
 佐倉では「佐倉牧」の名があるように古来、馬は人々にとって身近な存在であり、農作業、荷物の運搬、乗合馬車、軍馬などに利用された。特に丘陵の多い佐倉では自動車が普及してない時代大変重宝された。人々は、一家の働き手であり大事な財産である馬の無病や無事故を馬頭観音に願い、万一死亡したときには感謝・慰労の気持ちをこめて、その冥福を祈り供養するために木や石で馬頭観音を造るようになった。

2.元禄十年
  (1697年)
  の馬頭観音

   photo2

 正面の右上の所に何か文字が彫られているようだが判読不能である。馬頭観音の像の左下に「元禄十丁丑」の文字が彫られている。高さ約60cm。

3.路馬常盤之壙   

   photo3

 

 高さは約60cm位。路馬とは、道で車を引かせたり荷物を負わせた馬のことで、常盤は推測するにこの馬(多分雌馬)の名前だろう。働き者の馬で、大変可愛がられていたのだろう。壙は、墓穴である。ここに常盤という働き者の愛馬が葬られたことを記念して建てたものであろう。石碑の左側面に「安政二年乙卯(1855年)七月十一日」と刻まれている。当時、馬は「佐倉牧」で野馬(のま)として放牧されていたものが捕まえられ,幕府や藩の軍馬として売られた他、農民にも払下げられたが、雌馬の方がおとなしく扱いやすいとして農民には人気があったという。  

佐倉石碑クラブ

inserted by FC2 system inserted by FC2 system